#05

 今年の7月で、25歳になる。
高校生の頃、25歳になれば自分も海外の女優さんのような美貌(日本の女の子のアイドル的な可愛さを期待できる素養は、体格の良い男顔の私には見つけられなかったのだ)の片鱗が自然と現れるのではないかと、本気で期待していた。

 年頃なのに情弱だった。ヘアアイロンの存在さえ知らなかった。ワックスは不良少年が付けるもので、化粧や流行の服やプリクラを楽しめるのは、もともと何もしなくても美しさや可愛さをどこかしら備えている、「資格」のある女子だけだ、と信じて疑いもなかった(今もどこかでそう信じているところがある)。

 自分のようなガリ勉しか取り柄のない人間には、若さにかこつけた趣味やファッションは許されない。人生を楽しむ「資格」は私にはない。なぜなら大して女性的でもないし、同じ年ごろの男に媚びを売る競争に興味はないし。

 というか勝ち目がない。

 そもそも自分のことを容姿で判断するとしたら、まず世の男性の大半が望むチェックポイントの及第点も取れないだろう。自分が女性として魅力的でないことを自認するのは、周りからの扱われ方をみれば簡単なことだった。

 華の10代という言葉があったりして、みんな大学生の後半にもなるとけっこう「あの頃はピチピチだったわぁ~」とか懐かしむわけだが、私は懐かしむような華の時代は経験していない。適当に「だよね~」とか感情を込めた風に応えておくけど、それまでどんな話題で盛り上がっていても関係なく、その後の私の心は真っ暗になる。10代に華が無かった。
 このコンプレックスがいつかどうでもよくなって昇華してくれやしないか、と思っているけど、もしかしたら胃腸の病気と同じくらい今後も長いことひっそり抱えていくのかもしれない。

 私は背が高い。171㎝。そしてつい最近エステに通ってセルライトを除去してもらうまでは、相当脚が太かった。毎回担当の変わるエステティシャンに驚かれていたくらいだ。測定器に乗ると、上半身は全然痩せてる~と思ってたんですが…と言葉に詰まられてしまうくらい。
 おそらく要因は、家でも学校でも塾でも親族の家でも勉強机につきっきりだったことによる、浮腫みの慢性化。運動不足に加えて、ストレスで菓子類を大量に食べていた。一食の量が制御できなかった。食べても食べても精神の充足や安心感は得られないのに、食べ続けてしまう。ある程度気が済んだところでまた机に向かう。ほかにやることがないから。

 外に出る自由もなく、友だちと遊ぶことも親にいい顔はされないとわかっているので、最初から楽しい学校生活など望まない。趣味も持たない。親が聞いてもいいと許可を出したクラシックのCDを聞くくらいだ。ネット環境もない。DVDはディズニー映画かハリーポッター、スターウォーズのみ。自分でほかのものを探す手立ても知らない。遊び友達はもちろん、連るみ友達もこっちが合わせきれなくてどうせしんどくなるので、つくりません、という姿勢。
 決して煙たがられはしないが、当然壁を作っているのでクラスで明確な所在がない。クラスメイトは優しかったが、それゆえに私の扱いづらさが時折輪郭を濃くすることがあった。

 私も化粧を程よくして、部活や行事も楽しくやって、みんなと騒ぐのが好きで、流行の服をなんの迷いもなく気取って身につけて、颯爽と自転車に乗り、携帯の着信音にためらうことなくサッと出て、大声で笑って寝たら嫌なこと忘れちゃう的な、いわゆる陽キャに強く憧れはした。
 そういう陰キャのために「大学デビュー」があり、華の10代を経験する最後のチャンスがそれなのだが、もつれる家族関係や家庭環境の長年にわたる確執に疲弊しきっていた私にはさらに縁遠い話だった。「資格」を持つ人たちはすでに別世界の住人のようだった。なぜあんなに人生が楽しそうなんだろう、私となにが違うんだろうか…
 分析する度に悔しい思いがした。べつに「資格」なんてないのだ。単純に、育ってきた環境がまったく違っただけだった… 部屋で発狂するくらい叫んで携帯を何度も投げていた。一番驚いたのは自分だ。自分には欲がないか、とっくに消え失せていると思ってきたのだ。だけれどこんなに悔しいではないか。一体どういうことなんだ。そしてはじめて「親に望まれた姿」を自分の意志で脱ぎ去ることに決めたのだった。

 25歳になりはした。けどはっきり言って、美女には程遠い。
 まぁ、徐々に、自分の魅力を見出しつつあるような気はしている。自分の美点を探すことを、長年卑しい行為のように思ってきた。性悪説ではないけど、基本的に「自分は醜く、なにもできない人間なんだ」というスタンスで20年近く過ごしてきたから無理もない。ただこれからは、そう言い訳ばかりしてられない。そのまま痛々しい婆さんになるのだけは御免だからだ。いい加減、未来と現在に対する責任の所在は少なくとも自分にあることを認める必要がある。過去についても、年を経るにつれ、親や生育環境がダイレクトに影響した部分は全体から見れば小さくなっていくのだから。

 1年前の誕生日の何日か前、恋人が「なんのケーキ食べたい?」と聞いてくれたことがあまりに衝撃的で、情緒のバランスを崩した。ショックで頭が茫然としてしまって視点が定まらず、全身の力がすっかり入らなくなってしまい、バイトを休まざるを得なかった。

 なんでそんなことで?と不思議に思うだろうが、いままで私に「あなたの要望はありますか?」と身近な人(彼氏、恋人、友人、家族、親戚)に聞かれたことがあっただろうか、いやない。その事実に気が付いたこと、いままで何の違和感もなく「自分が」「相手に」「常に」『自分の要望を相手が無視することを前提に』合わせていたこと、それがスムーズなコミュニケーションだと思い込んでいたこと、を一気に知ってしまったからだった。自分の人間関係の築き方が、根本から歪んでいたことを、ここで初めて自覚した。

 その流れで改めて、これまでの23年間の価値を考えてしまった。結局身投げすることはなかったが、本気で消えてしまいたいと思った誕生日当日までの何日かは忘れることはできない。恋人のいう「僕が全部受け止める」系の言葉も、どこかで聞いたような台詞だなぁと斜に構えて受け流してしまっていた。私が受け流しても、彼は淡々と会話を続けながら、不安定な私の足場に支柱を増やし続けてくれた。友人は「好きにしたらいいけど」と前置きしつつ、真剣なトーンで聞き役に徹してくれた。本当にこの2人の手がなければ、一人だったなら、と考えると、寒気がする。夏の暑さで悪臭の増した、汚濁とゴミの浮遊する海水の、ぬるさを想像した。飛び込んだからと言って、すぐに死ねただろうか?いや、きっとそんなことはないだろうな…

 誕生日を2日過ぎて、恋人が休みの日にキルフェボンのタルトを食べに河原町に連れ出してくれた。
 洒落た友だちから名前を聞くくらいで、入るのは初めてだった。夢のような光景。ツンと立ち上がる生クリームの海に、いくつもの照明を受けて果肉の内側から輝く、宝石箱のようなフルーツタルト。何種類もあり、文字通り目移りしてしまう。二人で窓際の席に座った。木屋町との間を走る小川が綺麗だった。
 帰りに、その場では食べ切れなかったメロンのタルトを持たせてくれた。Paul Smith の青い一筆書き、うさぎの部屋着はなんとなくもったいなくて、その日は着られなかった。それが24歳のはじまりだった。

 24歳のおわりは、どんな風に過ごそう。例のウィルスで、きっとキルフェボンには行けないし、恋人と一日過ごすようなこともまだ難しいのかもしれない。けっこう寂しい感じになりそうだ。でも、24歳の時と違って、自分で次の年の自分を歓迎できている点では、明るい気持ちがする。

 華の10代として懐かしむ過去が欲しかった人生だけれど、いまが華だと思えれば30代になる頃には、そんな昔の劣等感など、どうでもよくなっているのかもしれない。自然災害も感染症も今後生き延びられれば、の話になってしまうけど、未来に希望をもつことは、現実逃避の楽観とは区別してもいいと思っている。


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