#01

窓を少し開けて寝ていた。

起きる頃にはいつも閉められている。寒いのに何を考えているのか、と起き抜けに言われる。もはや特に反応は返さない。彼女にとって、わたしは人生の付属品。

洗顔をすると、思い出す。朝食を食べていると、思い出す。学校へ行くために隣に住む祖母の、家の玄関に立つと思い出す。二階の自分の部屋に居ると、思い出す。何を。

洗顔の方法がわたしの教えたのと違う、と怒鳴られた事。食べ切れない量の朝ご飯を、帰ってから食べると言って席を立ったら、席に連れ戻され鬼の剣幕で、わたしの作ったものが食べられないのか、と無理やり口に料理を詰め込まれた事。学校へ行って来ます、と玄関を出る直前、両肩に手を置かれて、あなたはこっち(父方)の家の子なんだから、将来はこっちに帰って来なさい、と鋭く祖母が囁いた事。毎晩のように怒鳴り声が響く居間が、いつもと様子が違う気がして、降りて行くと、弟の手の平に赤鉛筆が垂直に刺さっていて、彼は泣いていて、母は何か叫んでいて、父が降りてきて、わたしはこの人にいつか殺されるかもしれない、みたいな事を考えていた、そういう一つ一つのこと。

しっかりと記憶にある。全てを糾弾しようと思うと書き切れない。父も、母も、祖母も、祖父も、叔父も、叔母も、誰もがお互いに不審の目を向け合う中で、潤滑剤として口上を覚えさせられ、使い回された事。子どもが言えばかわいいからと、伝書鳩のように親戚たちの間を手土産と共に飛びかわされ、役目を終えればつぎは雇い主のメンタルデトックスの相手が始まる。愚痴 悪口に始まる身の上話、各々のわたし達への理想像、あるべき論、楽しそうに生きる一般大衆への嫉妬、べからず論、などなど。

毎回最後まで聞くことが、親戚同士の仲を良くすると信じていた所もある。親戚ほぼ全員の、無限に吐き出される膿を吸い続けた。


窓を、開けて寝ていたのは、一種のおまじないだった。昔仲の良かった親友たちがここから迎えに来てくれたらいいのに、と童話のような願望があった。ネットは禁止で、携帯はメールの内容まで父が夜中にすべて目を通しているのを知っていた。電話も扉越しや窓越しにいつのまにか聞かれていて、振り返ると父がいてその場で叱られる。家族がいるのに身内でもない友達と話すことは駄目だとのことだった。手紙も無論、中身を既に読まれた状態で手元に来る。高校の頃、貰った手紙をすべて破って棄てた。父がたまに、勝手にわたし宛の手紙を読み返している気がした。気のせいだったかもしれないが、溜め込んでいたものの所為で何かが元に戻らなくなっていた。泣きながら部屋を滅茶苦茶にしたが、物音は下階に伝わらないよう細心の注意を払った。両親はわたしの部屋が滅茶苦茶なことに気づいてからも、特に何も言ってこなかった。

たまに学校をサボるようになった。中学の頃に唐突に朝から授業をサボったら警察沙汰になっていた。普通に登校する振りをして、リュックの中身は着替えとなぜかバスケットボール、自分で使えるお金は一銭もなかったので、自転車で田舎の何もない住宅街をフラついたり、やけに広い農道をひたすら行ったりした。思えば、現在の放浪癖の原点はこの時の可能性が高い。

昼間の、誰も通らない農道は気持ちが良かった。たまに通りすがる人は、わたしとは一つも関連のない、誰でもない人でしかない。農道は、道幅が広く、真っ直ぐに延びていて、両脇は田の緑が、風の通り道によって微妙に表情を変えている。静かで穏やかな、人に干渉される事のない、自分だけの昼間の時間だった。壬生に続く道をひたすら行った気がする。そもそも農道は自転車で行くような道ではないのだが、どこまでも行ける気がした。夕方になり、いつもの帰宅時間に合わせ帰ったところ、いつもなら働いているはずの親の車が揃っており、当然ながら叱られに帰った形になった。しかし自由の美酒の一滴を、わたしは味わうことに集中した。苦手な金切り声と怒鳴り声と外の寒さとに耐える事ができた時、わたしにとって、1人での無計画な逃亡は、自由の主たる味わい方となった。本当の自由には至らなくても、糸口でしかなくても、当てのない放浪は自由そのもののように思えた。今も少し、そう思っている節がある。

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