前書き

怨恨 という感情は、よっぽどの動機がなければ起こりえない、非日常なものだと思います。それが一時の情動で終わらないとき、その人の人格は既に破綻しています。もう日常を生きている人間ではないのです。周りの景色や人の言動はすべて黒黒として映り、誰のことも信用することができません。信頼の仕方をすっかり忘れてしまうのです。心の動き方が、常に大きくマイナスへ振り切るようになります。怨恨の感情が根を張った本人が、強靭な理性や倫理観をもって、合理的な方法で社会的にも支持されうる自己復帰ができればよいのでしょうが、「日常をそれなりに楽しめていた自己」を自分で取り戻すことは困難を極めます。

たいていの場合、怨恨の強さに突き動かされて他人を実際に傷つけてしまう(≒犯罪を犯してしまう)か、社会的に許されない領域に陥りたくはないという意思で怨恨を抑圧し、一人で引きこもって社会的な生活を諦めてしまうか、どちらかでしょう。どちらの場合もその人は二度と、「日常をそれなりに楽しんでいた生活」に戻ることはありません。怨恨に根を張られたら最後、よっぽどの強靭な意志をもって「戻る覚悟」を決めなければ、生きている限り永遠に苦しみは続くでしょう。この事実はすこし酷かもしれませんが、書き手自身の経験を慎重に踏まえた事実ですので敢えてお伝えします。怨恨による苦しみから逃れることは、容易ではありませんでした。

私が恨んでいた相手は両親でした。身内に向かった怨恨だったからこそ、余計にこじらせてしまったと思っています。
だれだって家族のことを好きでいたいし、信頼しあいたいし、楽しく過ごしたい。そもそも、相手が誰であるとか関わらず、最初から嫌いになりたくてなる、という人は珍しいと思います。そんなひとはほぼ居ないといっていいでしょう。それなのに、家族に向かった怨恨が、止まらない。止め処なく濁流のように向かって行ってしまう。10代の私には少し力が強すぎました。ただ、ほんのちょっとだけ、この濁流の向きを逸らさなければ、私が家族を殺してしまうだろう、という「自分もこの家族の一員である」という意識だけが、理性につねに強く在るよう働きかけていました。大人になるにつれ、その本能的な理性、自分の生れ出た場所もまたここであることへの配慮、思慕の気持ちを論理で支えられるようになり、私は怨恨からなんとか「日常の自己」を取り戻すことができたのでした。

それまでの間は地獄のような日々でした。本来の日常的な、健康な精神状態を取り戻すのに10年ほどかかりました。想定外でした。きっと数年でもとに戻れるはずと信じて、結局は同じ一年が繰り返される。その繰り返し自体もまた精神の非日常な鋭敏さを加速させました。あまりにも辛い日々だったのであまり思い出したくありません。しかし、私の早熟な思春期、自己の形成期はそこにすっぽりと含まれてしまっていて、自分自身が完全に健康な状態になるには、己の出所に丁寧に目を遣る必要があると感じたのです。故にこれを書いています。インターネットは現実以上に偏りやすい反面、現実以上の広い視野を獲得することもできる場です。ネットの上では、人は複眼的に物事を捉え、判断し、時間と空間を自由に行き来し、事実上の人格や性別からさえも自由になることができます。本当の意味で現実以上の世界が展開されているのです。その中で遊ぶうちに、どうかこの駄文が、いま苦しんでいる当時の私自身へ届きますよう。もしくはこれを読むあなたに響きますよう。

2018年12月29日 12時51分 自宅にて記す

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