親不知の大冒険☆天空
『下の歯は屋根の上、 上の歯は樋の下。』
抜けた乳歯を放り投げる父とそれを見守る家族。照れくさいような、大人になったような不思議な感覚。
麻酔が効くのを待たされる間、幼い頃のそんな情景が浮かんだ。町医者にサジをなげられ紹介された口腔外科で、右下の親不知を抜くことになったのだ。
日頃はないものねだりに精を出すクセに、ときに多くを持ち過ぎ、さらにはそれを持て余す。そしてその「なくてもよい歯」の存在は私を苦しめた。
「歯茎を切開して骨を削り、歯を割って取り出します。」
事前に説明されたのと同じような淡々としたリズムで処置は行われた。終わった後は美しくてとても立派な自分の歯を薬と一緒にもらって帰った。
其の後は、夜中に大出血をおこしたり、固形物が食べられなくなったりと随分長い間、頬は腫れあがり鏡の中には別人のような顔が映った。
抜いた歯はどうする?これほど辛く大変な思いをしたのだから「屋根の上ごときでは気が済まない!」とてもとても強く思った。
たとえ自宅の屋根で手を打つことにしたとしても、11階建てマンションの屋上にはとどくまい。そんなことを考えて空ばかりみていたら、ある考えが浮かんだ。
ソウダ、ニホンデ イチバン タカイトコロニ…
季節は夏!迷う理由など、どこにもない。そこからの行動はいつものごとく迅速だった。
富士山登頂。それは坂道を昇るような気軽さで臨んだ。ただ歯を日本でどこよりも高いところに運ぶためだけに。
せっかくなのでご来光が見える夜間登頂のツアーにした。ハイキング感覚で出発し、登り始めてすぐさま青ざめた。このときの登山で自然の脅威と、夜の闇の深さを思い知った。
真夏の吹雪、お賽銭トイレ、700円のカップヌードル。赤飯にミートボールが二個の弁当、果てしない闇路。足元を照らすのは自分のライトのみ
もしもの時は、馬かヘリ以外にはない救助方法。山登りというよりはロッククライミング。
降るような流れ星を初めて見たが、祈りをかける気力さえ奪うほどに挑発的な山だった。その頂きに立った時、御来光の素晴らしさと引き換えにして、辛さと痛さ、苦しみや悲しみ。そして白く輝く歯をそっと大地に還した。
感動のクライマックスを迎えるはずだったけれど、目的を果たした達成感よりも,登りきった征服感よりも下る道の果てしなさと疲労感に軍配が上がった。
人生初といえる大冒険の末、日本一の山を制覇し平地についたとき濃い空気を惜しみなく取り込み、ようやく全身でほくそ笑んだ。
徹夜だったので、まずは泥のように眠りその深い眠りから覚め、ようやく全てが現実としておさまった。
しかし冒険を終えて安堵したもつかのま。数日後には右上親不知の抜歯が控えていた・・・
『下の歯は屋根の上、上の歯は樋の下。』
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