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現在の氾濫するコンテンツの将来について


インターネットの登場、それは結果的に個人が自由にその創作物を世に出す事を容易たらしめた。

膨大な人口の人類、その各個人が創造し発表することができるという現代、コンテンツの量は圧倒的なスピードで過去最多を更新し続けているだろう。

そんな現代で、私はふと思った。
氾濫するコンテンツは、オリジナリティを全体の物量によってすり潰されはしないだろうかと。
すこし語弊がある、というか説明するのが難しいので、補足する。

創作物は、これまで限られた者しか世に出すことが叶わなかった。しかし、それによってコンテンツの数は限られ、強烈なオリジナリティを確固たるものとした。

そして、現代の毎日のごとく発表されるコンテンツはそれぞれたしかに別の創造者から創られたものではあるし、別の物であることは事実ではある。
だが、林立し氾濫したコンテンツは似たものがただ数を増やすだけという側面を持っている気がしてならない。

とある人の新刊を読んでいて、どこかで読んだことがある気がしてならなかった。結局その本は他人にあげてしまった。
譲渡こそしなくとも、そんな経験あなたにはないだろうか。
書籍でなくとも、某動画投稿サイトの数ある動画でも、同じことが言えるだろう。

別の人間が創り出したはずのコンテンツが類似性をもち、コンテンツの帰結とも言える状態になるのではないか。
ちょうど、溢れる光を集光レンズで一点に成すことができるように。

つまり、完全に独立した生物として人間は存在しているのに、その創作物はどこか類似性を持ち、同じようなものが林立するのではないかと思う。

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