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わたしはdeadに生かされている

締め切りをdead(deadline)と称するのは言い得て妙である。


かれこれ1年以上向き合ってきた卒論の主張を明らかにできたのは、提出4日前のことであった。

計画性がなくギリギリだったことは認めるが、まったくサボっていたわけではない。名古屋にあるすべてのベトナム料理店・食材店28軒を訪れるフィールド調査を敢行し、それなりの数の文献を読み漁った。

けれども一向に文章が書けない。どれだけ調べて読んでも思うように筆は進まず、締め切りは静かに近づいてくる。

まったく終わる気配がしなかった。いやきっと、終わらせる気がなかった。


おそらく締め切り6日前までは終わらせる気が本当になかったんだと思う。水面下ではやばいやばいと焦っているものの、心のどこかではあと数ヶ月も執筆期間があるんじゃないかと錯覚しているような、不思議な境地にいた。

しかし5日前の夜、唐突に「この論文に手を加えられる時間はマジでもうない」と本格的に焦り出す。もう悩んでいられない、とりあえず書かなきゃいけない。

ひとまず教授に連絡して次の日に相談させてもらい、やっと納得できる卒論の主張と方向性を導き出した。そこからはもう無我夢中で3日3晩キーボードを叩き続け、なんとか仕上げ、無事提出した。怒涛の最後だった。


「時間がマジでもうない」と有限性を実感するとこんなにも馬力が変わるものなのかと、一周回って感心してしまった。それと同時に、もっと早くに気づいて完成度を上げたかったという欲深い後悔もふつふつとわいていた。


私の卒論はdeadに生かされていた。ふと、そう思えてならなかった。


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ことの終わりに浮かび上がる思いを今ここに映すことができたら、どんなによいだろうか。


2年ほど前から、死ぬまでの過程を想像して心から大切にしたいものを見つける「体験的に死ぬ」というワークショップを、友人と定期的に開催している。これまでに50人以上の方に参加いただいた。

ワークショップでは、まず大切なもの、場所、人、価値観を21枚の紙に書き出す。その後に読み上げられるストーリーの中で参加者は主人公となり、カードを捨てる決断を迫られ、すべてのカードを捨てて「死」を迎える。

ストーリーのワークを終えて、再びZoomに集う。表情がガラッと変わる参加者さんは多い。そこから3、4人に分かれて感想や気づきを自由に話す時間に入る。


毎回、いろんな人がいる。自分にじっくり向き合ってみたい人、身近な人の死を経験した人、人生の節目を前にした人、漠然とした不安を持っている人。年齢もバックグラウンドも様々な人たちが同じ体験をした後に生まれる対話は不思議とあたたかい。

「最後残ったカードは何でしたか?」「どんな順番でカードを捨てましたか?」「あの場面では何を感じましたか?」

そんな会話から始まって、「何を大切にしたくてそのカードを残したんでしょうね?」や「このワークショップが終わったらどうしていきますか?」など、いろんな方向に展開していく。

他の人が話したことに対して「とてもわかります」「私もそうでした」という共感が湧き上がることもあれば、「それはおもしろいですね」「自分は逆でした」と多様さを実感することもある。「それぞれ違う幸せの定義があるよね」という話もあった。

いろんな死の捉え方があった。「肉体に別れを告げる」「感覚が削ぎ落とされていく」「先立ったあの人にやっと会える」「次のステージへ進む」

そして、いろんな生の捉え方もあった。「すべての喜びを享受する」「どうせ死ぬから、目一杯楽しみたい」「感謝を持ち続けていたい」「多くを感じとっていたい」


そんな今までの対話の様子を「3つ、4つの絵の具が綺麗に混ざっていくようだ」と、一緒に運営している友人は言った。

「ダイバーシティー」が叫ばれる世の中では数多の正義が戦っていて、私は時たま、誰かの負の琴線に触れないようにくぐりぬける心地になる。

パワーや優劣さに敏感になるし、よく見られたいとか思ってしまう。自分にないものを持つ人を見て比較して、頭ごなしに自分はダメだとか思ってしまう。私だけでない、少なくない人がきっと感じている。

そんな「ダイバーシティー」の側面をここのところは捉えていたけれど、このワークショップの対話たちは、死を前にしたらみんな人間で、みんなそれぞれ生きているんだなと感じさせてくれるものだった。

絵の具の色はぶつからずに混ざり合ってそのまま存在していて、じんわりとあたたかい。


また、参加者だったある友人は「今死んだら後悔ばかり残る」と感じて、向き合えていなかった人や自分に向き合おうとするようになった。後悔を行動に還元していた。

「まだ口だけだけどね」と言っていたけど、それはとてつもなくエネルギーを要することで簡単じゃない。そんな彼は今、大きな挑戦のために日々奮闘している。私は素直に感動している。

終わりを想像するのは怖いことかもしれないけれど、現状を打開する1つのきっかけになり得る。

ちょっと違うかもしれないけど、私の卒論もそんなエネルギーに生かしてもらったんだなあとか思う。


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私も体験的に死んだことがある。最後に残ったカードは「空」だった。

確かに空は好きだけれど、見られないのはいやだなあぐらいの気分で捨てられなかったから、日頃もっと大切にしている人や価値観が他にあるはずの中で空が残ったのは意外な結果だった。

なんで空が残ったんでしょうね —— そう尋ねられて、考えを巡らせる。

「ひかるさんは信念の人だよね」と言われたことがある。「こうありたい」という信念は助けにもなる一方で、心身ともに弱っていく中ではしんどさにもなる。

私はあの時しんどかった。理想と現実がどんどん離れていき、体力と気力が削がれていく中で距離を縮められない。そのギャップがたまらなく怖かった。

きっと恐怖から逃げるようにして、私がどんな状態であっても変わらずに存在する空にすがりたい、という気持ちが、「空」のカードを残した。

そうか、最後に求めていたのは何があっても揺らがない安心感なのかな。


もうひとつ印象的だったのは「親」を最後から2番目に捨てたことだった。

「親より先に絶対死ぬな」

小学生のころ、亡くなった友人の妹の仏壇をお参りした帰り、家の駐車場で母が泣いて言い放ったことがある。母の心境を慮るには幼かったが、何が何でもそれだけは守らなきゃいけないということは十分に理解できた。

だから、最後まで「親」のカードを残せなかった。親に自分の最後を見せたくないと足掻いてみた。それで親が幸せなのかはわからないし、強がりで不器用な自分らしい選択だったかもしれない。

現実では私は生きていて、親も生きているから、一緒に生きている今の時間をしっかり享受したい。自分の人生を一生懸命に生きたい。そしていつか、できれば近くない未来で、親を看取るという使命を果たしたい。今は想像できないほどに苦しいだろうけど、だからここに書き残しておこう。




「命は有限だ」「人はみんないつか死ぬ」

端的なことばを纏うだけでは、不変の摂理はあっけないほど軽いから、たまに人生のdeadを想像して、何かを感じてみるといい。

そして、感じたことを人に話してみるのもいい。これこそ端的なことばかもしれないが、みんな人間で、それぞれ生きているから、いろんな色が混ざり合うように受け止めてくれるかもしれない。



わたしはdeadに生かされている。

そんな人生を今、生きている。



また数年後、体験的に死んでみようか。


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死を擬似体験するワークショップ「体験的に死ぬ」


#ぶんしょう舎  課題③「 #わたしたちの人生会議 」(2021.1.30)


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