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シュライン#15. 那智大瀧 (飛瀧神社)

シュライン#14「熊野那智大社」の続きです。なぜか昨日と文体が違うのですがお許しください。笑。「熊野古道」として観光セットになっているコースとして最後に訪れるのがこの「那智の瀧(なちのたき)」ですが、
ここは「熊野那智大社」の別宮「飛瀧神社」となっており、御神体が”瀧そのもの” ということみたいです。

御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)でありこの神様は国津神(くにつしん)の頭である大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名ということらしい。神様にいっぱい名前あってわからなくなるときは現代にたとえると理解しやすいです。例えば”RCサクセション”の”忌野清志郎”みたいな感じで、
わたしの実家の氏神様は「物部氏」を祀っているので主祭神のところに「物部布津神(モノノベフツノカミ)」と書いてありますがこれは”RCサクセション”にあたる部分で、バンドでまとめない主祭神は「饒速日命(ニギハヤヒのみこと)」となります。これが清志郎部分です。この飛瀧神社の場合はおまとめと言うよりは同じ神の別名なので、わたしがラララ・ラム子という名前と小説家名を持っているようなそういうような感じで理解するとわかりやすいと思います。強く出る要素によって、記される名前が違うということですね。

ところで実は9月にもっともわたしが重要視していたことは、大己貴命と大国主命が同じということよりも、真の神様は瀧神である「瀬織津姫(せおりつひめ)」ではないのか?ということでした。

(⤴︎那智大瀧入り口)

この前の文章をなぜ過去形で書いたかというと、今のわたしは、実のところもしこの祭神が「瀬織津姫」であったとして、それが天武&持統天皇の時代に書き換えられたとしてもそれをあまり「ゆゆしきこと」と捉えていないからなのです。(これも理由は[突先8. 太陽]に書きましたが、要は瀬織津姫じたいがそれでいいと思っておられる気がするということなのです)

しかし、えっと今これは時系列順に書いていてですな、この段階では祀られている神様に対してわたしはあまり関心がなかったのです。
この「那智の瀧」の真の御祭神についてわたしが真実を知りたくなったのは、伊勢神宮の”多賀の宮” で感じるところあり、その流れで大石の「佐久奈度神社」に参り、大祓詞を唱えてからなのです。

なのでここではなるべくフレッシュにその時系列で感じたことを書いて行きますね。

フレッシュにその場で感じたこと。
実はこれこそわたしがもっとも大切にしていることなのです。
これはその後で訪れた「佐久奈度神社」で感じた出来事なんかもそうなのですがすべてが極めて”Personal"なことであって、そのわたしの体験が一般的な意味を成さないことーーつまりこの記事を頼りに誰かがそこへ行ったからといってなんの参考にもできないような個人的な出来事ーーであっても、
あまたの巡り合わせの中でそれがわたしに起きたことが大事で、それがどれだけ「霊的なこと」や「スピリチュアルなこと」と無縁であったとしても、実はそれこそがもっとも直接的なメッセージである、ということなんです。

わたしはそう考えているのです、ということをベースにわたしのことを記させてもらうと、実はここには前に好きな人と二人で来たことがあった、そしてそれをその日思い出した、ということなんです。
そして、ここからがもっとも大切なんですけど、その記憶はよくある微笑ましい昔の恋ではすまない、わたしの人生は少し変わっていて、実は十数年前のその日以来、よく考えてみるとずっと、
「わたしはれっきとした恋人と呼べる相手とこのように外に出かけたり一度もしていない」ということなのです。
だからこそこの記憶の重なりは、わたしの今とこれからにとって、ものすごく重要な出来事なのでした。

わたしは14年前のその日にここで「ふたりで瀧を見た」ことを「女の子とママと長靴と」という小さな短編に書き残していました。作家になる前に書いたもので、出版もされていません。
(あの瀧は、この瀧だったのだな。こんなにスピリチュアルな意味合いを持つ重要な場所に、あんなにふわっと、二人でやって来ていたことに気がつかなかったなぁ)わたしはそう思いました。

彼は和歌山出身のプロサーファーで当時22さい、わたしは25さいでした。
れっきとした、と書いたけれど世界を飛び回って活躍していた当時の彼と結局付き合うことはできなかったのですが、思い出してみると、やっぱり彼はとてもわたしにちゃんと向き合ってくれて、わたしを大切にしてくれていた。地元をあちこち案内してくれて「堂々と」隣にいてくれた。

彼との恋愛の後のわたしは、彼女と住んでいる男の人を好きになって、
その人が彼女と別れるのを待って、でも男の人は別れずにその子と結婚し、その話をネタにして小説を書いてデビューして、
でもまた性懲りも無くまた次も同じパターンの男の人を好きになり(というか好きになってから知ったから)その人も結局、一緒に住んでいる女の子と結婚をし、その繰り返しに打ちのめされてあっという間に10年以上が過ぎたわけなのですが、つまり互いの存在をきちんと認めあった上で外に出かけたりなぞずっとしてこなかったわけなのです。そして那智の瀧を目の前にして、わたしにもそんなピュアでまっとうな恋愛があったことを思い出したわけなのです。笑。
関係性とか、セックスとか、約束、とか、確認とか、兼ね合わせるはずのものがいつもどれか欠けてる恋愛じゃなくって、約束をして会って、一緒に出かけてそれを楽しんで、ご飯食べて一緒に寝て、ちゃんと起きた時も相手がいることまでが一連でセットの恋愛。笑。
互いが互いを好きだよね、ってことは確認済の恋愛。
一般的な恋愛に対して「欠けているもの」に打ちのめされなくていい恋愛。

今はわたしなりに「これを貫いていこう」と思う愛を見つけてはいて、それは今、それもそれなりに複雑なものであるのですがわたしのスタンスは決まっています。

昔彼と来た瀧を目の前にして確認できたことというのはとても尊い2つの出来事で、1つは「わたしをとても大切にしてくれた人がいたことを思い出せたこと」2つは「かといってそれを思い出して嘆くかというと、わたしは”今”がいい。今の恋愛を大事に想っている」ということでした。
これがどうわたしにとって特別だったかというと、
ここ10年以上のすり減るような、ずっと影にいるような「れっきとしたデートもない」恋愛の中でわたしはその人そのものよりも「状況」を欲しるようになっていたと思うのです。いや、もちろん相手は唯一無二ですから代えられないのだけど、だけどつまり「彼女と別れてわたしだけと関わってくれる状態を切に望む」ということ。それはもちろん「当然そう考えていい」ことなのですが、そこばかりに集中すると見落としてしまうことも多々あって、
それが状況をさらに悪くしたりもするし、相手が変わって、その相手が自分を大切にしてくれていても、そのトラウマを発動して真実が見えなくなる時間が多かったと思うのです。同時に状況が似ていても相手は全く別の人間なのに過去のケースに当てはめて「この人もどうぜ同じ」と決めつけるとか。

今テレビで「獣になれないわたしたち」ってやっているのですが、あのドラマの設定って「嘘でしょ」と思う人も多いかもしれませんが、リアルを経験してきたわたしとしては「あるんだわこれが」というものです。笑。
このドラマはどうなっていくかわからない、でもわたしにはある程度の覚悟が、この数年を通して決まっていて、だから過去十数年たどって見ても一番大切にされていて、一番幸せだったあの日と同じ景色の前に立っても
「今がいい」と思えた。
「この頃よりずっと状況は複雑、だけど今がいい。わたし、今を幸せに生きています」

これは収穫。

瀧はただ静かに、白いしぶきを打ち上げていた。
そしてあの頃、彼と入った勝浦の海は、変わらずキラキラと眩しくて、
美しいのであった。

この「那智の瀧」で、わたしは一段と「つるり」とした。何年もかけて体の中に溜まった澱とかトラウマの垢とか、そんなものがこの瀧で祓い落とされたような気がする。じゃあきっとそこに「速川の背にまします瀬織津姫」がおらっしゃるはず。清めの砂を買った。那智大瀧の清めの砂。

人生は螺旋階段のよう。何度もぐるぐる、同じところで悩んで行き詰まって、前に失敗したのと似た景色がくると違う場所にいるはずなのに同じことが起きる気がして怯えたり。

でもふと、十数年も経ってから全く同じ景色を目の当たりにすると、
じぶんはあの頃より、ずいぶんと風通しのいいところから俯瞰でものを見られるようになっていることに気づく。繰り返しでも”高さ”は少しづつ上がっているのだ。

これがわたしの「那智大瀧」。心のリセットをしてくれた場所。
今日は個人的なエピソードになりました、お付き合いくださりありがとう。

それではla la la ♪ la la la シュライン☆

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ