la la la 90. ”頑張り方”を見直してみる。学ぶなら働くべからずのスコーレ。(By ラム子)
こんにちは。”頑張り方”を見直してみる。同時に「些細な気分の変化に注目してみる」前回の続き、あるいは補足です。
日本人にとって「頑張らない」というのは結構難しいことです。
頑張ることが美徳であり、頑張らないのは怠惰である、という考えが染み付いてるからです。「もっと頑張れよ」ってすぐみんな言うけど、でもじゃあ具体的に「頑張る」って何を指すのかな? 皆が帰る時間に帰らず遅くまで会社に残ること? 寝ないで24時間をなるべく稼働していること?
頑張るって「ストイック」と直結していないかしら? ストイック以外の「頑張る」アプローチはないのかな?
「頑張る」にとらわれてしまうと「頑張る呪い」の中へ中へ入って行ってしまう。そして自分の人生にとって大切なことが何か、思わず見落としてしまうのです。祖母が亡くなった時、妹は入社1年目。祖母の死を電話で伝えたのはわたしでしたが彼女はその場に立ち尽くしてしまいました、仕事を放棄して良いのかわからなかったのです。その時に妹に「いますぐ帰りなさい。この会社には大切な人の死を弔うこと以上に大切なものなんか何もない」と言ってくれた人がいて、その人は何年かして妹の旦那さんになりました。
よく考えると当たり前のジャッジ「そもそも自分は何のために働いているのか」そんな簡単な”本来のこと”が、頑張っていると頑張っている渦に飲み込まれて「そんなことより」という間違った呪いになってしまう。
ちょうどわたしが20代の頃、2000年代の日本ってそのど真ん中にあった気がします。「冠婚葬祭」ですら「そんなことで」と言われてしまうようなそんな空気がありました。でも今は違う。時代が変わってきています。
今日はギリシャの写真を使っていますが、ギリシャって経済破綻しててすさんでるんでしょ、って思っている人が多いのですが、ギリシャ人って全然そういう感じでは生きていません。なぜならギリシャ人の考え方の根底に「学びは余暇やゆとりの中にこそあり、学ぶなら働くべからず」というものが強く無意識で流れているからです。
もともと「働く人」というのは働くだけの人と考えられていて、ギリシャでは労働はあまり素敵なことではありません。哲学者であるとか「何かを考え、生み出す人」こそ重要だという考えの中で、
何かを考え生み出す、その根元には「余暇であり、時間であり、遊び」が必要だと考えていて、それがスコーレ、今のSchool(スクール)の語源です。つまりスコーレは 、学び、遊び、余暇という、3つの異なった意味を、たった一言で表す言葉であり、つまり「頑張らない時間」こそが学びと発展のために必要であるという意味合いで、現在のスクール=学ぶところ=頑張って勉強するとは、まるで相反する意味合いの言葉なのです。
当然今のギリシャ人たちがそういった古代の思想を脈々と受け継ぎ意識的にスコーレしているかというとそうではない、でも「無意識レベルの生活習慣で」その幸福哲学は受け継がれている。だから経済破綻したアテネに日本のテレビ局が取材に行ったりすると、経済破綻しているのにコーヒー屋も15じに閉まってしまう。「閉めて何をするんですかこの後」と尋ねると「家族とゆっくり過ごすんだ」と悪びれもせず答える。その答えに日本の慌ただしい日々の中でアテネまで取材に飛ばされている記者の人たちは理解しがたい気持ちになるのですが、彼らにとっては働きに追われることが下等な現象であり、スコーレの中で人生を送っていくことが真の豊かさだと言うものが根付いているのです。
つまり何が言いたいかと言うと「頑張る」「頑張らない」も、ある社会の多数決感覚の中で株のように推移がある。
例えば日本で「嫁が熱出したんで」とすぐに帰る飲食店の店長がいたら、やる気あるんかい、とか、そういう風に思われる過去があったとして、
でももし世の中が「それは何より優先しなきゃ!」と言う思想が根付いていたとしたら、店長が帰ることでお客さんが「わたしらどうなるんじゃい」となることもない、でも後はバイトくんがいるならわたしらはもう一杯、みたいな感じで済む話。でも「お・も・て・な・し」の文化が強い日本では「**さんがいらしてるのに店長帰るのはNGでしょ」とかがありますよね。
つまり一つの共通した考えにより、店長が帰るとそのお客さんが機嫌が悪くなって、バイトもあたふたする、というような、マイナスの感情の連鎖です。
でも今、この日本で、いろんなことにおける「幸せの定義」や「働くということ」「暮らしていくということ」「生きていくということ」の感覚が、
根底からくつがえり始めています。
それはスピリチュアル的に言うと、世界が「本当の幸せに目覚めよ」的な信号をずっと地上に下ろしていて、それをキャッチした人たちが次々と「あれ、今までのわたしって何だったんだろう、本当にこれからもこのままでいいんだろうか」って自分の暮らしと人生に対して今ちょっと立ち止まって考えてみたりしているということであり、
それを具体的な思考感覚で説明すると、度重なる地震や天災や暴かれていく権力社会の裏事情なんかを受けて、考え方が変化しているとも言えます。
少し前までタワーマンション、億ションというとキャー!みたいな感じがありましたし転売して儲けられるというツールでありましたが現在こんなに心もとないツールはないと言えるようになりました。だって、もし地震きたらどうすんの? もし買ったマンションに噛んでいた建設会社に耐震の隠蔽とかが発覚したら? もしそこが地盤沈下したら?
今、実際に自分が暮らしたい、という目的以外で億ションとかタワーマンションに魅せられてる人は、まだ何かしらの3次元の夢の中にいるのではないかな? とわたしは思っていて(不動産が職業の人はまた話が別です)、今これを読んでいる読者の方も「あ、なんかわかる」という感覚の人が多いと思うのです。今、そんなに高いところに住みたいかと言うとそうじゃない、みたいな感じ。
これは一つの例なのですが、そんな風に些細なところから「実は何もかも」世界は変わり始めているのです。なので自分の中に湧き上がる”些細な気分の変化”に強く注目してほしいのです。これがとても大事なことで、
タイトルとちょっとずれているようにも思うのですが、
些細な気分の変化に注目することから暮らしや生活が少し変化し、
やっぱり1日の大半を担っている「働く」ということへの感覚が変化する。
それはつまり、頑張り方を見直していく、ということになっていくと思うのです。頑張るってそもそも何なんだろうか。そしてそもそも「頑張り」ってそんなに必要なんだろうか?
「踏ん張り」は必要だと思います、ここぞと言うときの、踏ん張り。
でも「踏ん張り」があるのであれば別に24時間 ”頑張る” 必要ってないんじゃないかなって、これはしごく個人的な意見として思います。
”頑張っている” 時って余裕がなくなると”頑張らない人”に鼻についたりイラついたりして、その人を悪く言っちゃったりしますよね。誰もが経験あることだと思う。学生でも文化祭とかそういうので。笑。
でもそれってすっごく無意味なマイナスエネルギー。
「頑張る」ことが素敵なことのはずであれば、頑張ることで誰かにマイナスな念を飛ばして、飛ばされていやになった人がまたマイナスなものを発するというスパイラルにはけして落ちていかないはず。
「頑張り」を否定しているのではないんです。
だからこそ、本当の「頑張り」ってなんだろうって思うのです。
それってきっと誰かと連帯することではなくて、あくまでとても個人的なものではないだろうか。
つまりそれを自分だけが頑張っていたとして、周りがそうしてなくても気にもならないようなこと。頑張ってるのにと追い詰められていかないこと。
「そこ」に気づいていけると、ストレスのない、本当の頑張りかた、が見つかるのではないかなぁ。
今日は感覚的なことを書くつもりが説明的な回になりました。
また別の機会に今世界で起こっていることをもっと感覚的な記事でお伝えできればと思います。
それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆
嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ