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コネクション・コンプレックス

私は比較的明るくておおらかな性格だけれども、もちろん、コンプレックスもある。主なものは、学歴、性別、地方出身者、体型、そして、コネクションに関することだ。

私は、全くコネのないところで何かをスタートすることをこれまでとても多く経験している。

例えば、私は長子なので、小・中学校に入学の際は、「あら、○○君は、△△さんの弟なのね」という紐付け的認知を先生方から受けることがなかった。ゼロから自分のことを知ってもらわなくてはいけないかった。

また、高校を卒業して就職した先も、学校からの推薦もなく、試験で受かった企業に就職しただけで、全く知り合いもいない見知らずの街に引っ越してきた。実家からは新幹線を乗り継いで6時間もかかる場所である。まさにゼロから街を知り、友人を作り、この地に慣れていった。もはや実家にいた時よりも長くここに住んでいる。

オランダに留学した時も、ただ「頼もー!!」と試験の申し込みをしたのであり、「知っている先生がいた」「夏期講習を受けた」などは一切ない。無縁の地に行った。

知らない土地に行くのは楽しいし、怖いもの知らずな性格にも合っている。今となっては、一人でお酒を飲みに行くのも楽しい。知り合いがいなくったって、すなわち、コネがなくったって今まで生きてこらた。

しかし、どうしても、ムクムクと黒い羨望感情が湧く場面がある。それは、演奏会前後の“挨拶タイム”だ。

自分は比較的小規模の管楽器リサイタルや室内楽のコンサートを聴くのが大好きなので、19歳で都市部に引っ越してきてからは、「こんなにコンサートってあるんだ!」と嬉々として色々と通っていた。ところが、そこが私にとっては心が締め付けられる現場となる。

小規模の演奏会だと、聴衆は演奏家の知り合いであることが多い。先生だったり、同級生だったり、家族だったり。その人たちの間で交わされる

「お疲れ様です〜」

「○○先生、お元気ですか?」

「いつもお世話になってまして〜」

「この間△△って曲本番だったんですよ」「マヂっすか、やばいっすね」

という「挨拶の渦」に孤立を感じずにはいられないのだ。純粋に演奏を聴きたくてこの場にいつ自分が、まるで「お呼びでない」存在に感じる。もちろん、チケット買っているわけだけれど。

さらに追い討ちをかけるのは、終演後の挨拶タイム。演者の前には長い長い列ができて、並んでいる人たちは手土産を携えている。そして、演奏の感想だけのみならず、「今度○○先生とご一緒するんです」などの報告もする。

演者も、知り合いを見つけては大きな声で「ありがとうございました〜」「お元気ですか〜〜??」と話しかける。私のようにコネなく聴きに行った人などが前を通り過ぎても、気にも留められない。

というか、演奏会には、知り合いしかいないのだろうか?「この人に興味がある」「この曲を聴いてみたい」「この楽器が好きだ」なんて人は、聴きに来ていないのだろうか?そんな聴衆は演者にとっては必要ないのだろうか?

考え過ぎと言われるだろうけれど、私にとってはかなり辛い瞬間だ。コネがなくちゃダメなの?コネが多くないのいけないの?特に、まだ田舎から出て来てすぐのときは、猛烈に孤立を感じ、好きな音楽を聴いたのにも関わらず、悲しくて悔しくて惨めな感情と、それによって起こされたホームシックで数日元気が出ないこともしばしばだった。

この「挨拶タイム」に対する反骨精神が、私が日本の音楽大学には行かなかった理由の一つでもあるのだけれど。

今は演奏する側になったけれども、演奏会ごとに、そのコンサートの特色も踏まえて、満遍なく挨拶をするか、全く終演後には出て行かないのどちらかに決めて徹底するようにしています。

挨拶する場合は、目をみて握手をしてしっかり挨拶。





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