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五月だ桜だ 20190501

緑ヶ丘公園って、こんなに桜があったんだ。

ここいらは子供時代のテリトリー、遊び場だった。けれど、桜だ春だ、なんて意識して見てなかったんだな。冬がことさら長い、とか、茶色の春が長すぎる、とか考えたこともなかったな。本州の春を知ってしまうと、十勝の茶色な春は長いままだ。夜空の冷たい月を見ながら学校からひとりで帰ることや、水たまりの氷を一番に踏むことや、日高山脈を見ながら登校することは好きだったけど。そして、結局それらに呼ばれて帰郷したようなものだけど。

美術館から見た桜はそれは見事で、奥まで深まっていくピンクが春の驚きを満たしてくれた。モノクロから茶色のままだった世界へようこそ。ようやく来た。けれど、冷たい雨、曇り空の五月の始まり。

きっちりアトリエを整理したら、きっぱり制作専用空間へ変貌した。居間のとなりにある制作空間で、生活が制作になだれ込んでくる、もしくは、制作が生活と並走しているのかなとも思うけれど、まぁ並走は無理だよね。生活も制作も生半可じゃないしな。けれど、生活のあれこれの時間も制作の霧のようなものに覆われている感覚がある。それは意識しようと、していまいと、「ある」。制作っていう未知を垣間見れることのできる興奮が、それがどんなに不確かでぼんやりしたものでも、やたら力強く日常を支えるんだ。

しかし、きっぱりとした制作空間だ。ここに制作中の「絵画」があると、いつでも異次元はそこにあるってのが、すっきりと見える。作者が見ていなくても、そこに「ある」。

現代アート的な表現を見ると、つくづく自分の手法は「古い」なと思う。古いというと語弊があるので、「伝統的」とでもいいましょうかね。けれど、手法が伝統的であっても、なかみが古いままでよいと思っているのかと解釈されちゃ困る。とても奇妙なことをしているともいえる。観れば見る程これは絵なのか?というような絵なのじゃなかろうか?

あてがいぶちは嫌い。

なにしろ、自分で探したいのだ。

自分で面白いものを自分の方法で見つけたい。

制作は、その最たるもので、わかりきったことなんかやってたまるかの助なのだ。

なんか、古臭いねなんて、見てると、パンクなパンチでぶっとばされるよ。絵に笑

けどさ、わりにすっきりするかも。

そこんとこよろしく笑


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