わたしのよくわからない性指向と現在に至る雑文

トランスジェンダーとなるまでの記録をまえのノートに記したが、なぜ性別移行までにこんなに時間がかかったかというと、性指向が女性だと思っていたことと関係があります。でも考えてみると、しっかり女性が好きというほどにこれまで恋愛というものをしなかったということがあります。
まず、初恋だと思っているのは小学校3年生の時に意識しましたが、それはほとんど喋ったこともない人で、いまではなぜ好きになったか思いだせない。ですが、とにかく思い込みが強かったのでしょうか、ひたすらにその人を思い続け、高校生くらいまで考えていたのです。ただの片思いです。付き合ってどうしようとかそういうことも考えられないただの憧れ。

 タレントではその頃有名だった、岡崎友紀さんに憧れて、「奥さまは18歳」が好きでよく見ていて、ロマンチックラブイデオロギーが強かったです。

 そして、中学生に入り、第二次性徴が始まり、男らしくなる身体には多少違和感を感じましたが、とくに嫌だったのは声です。自分の声を聴くのが嫌で、なるべく声を出さないように、無口になりましたし、音楽の授業はまったく自分で歌えなかった。(まあ、音痴なのもありますが、でも声をだすのが嫌なので当然練習もできず、音痴になりますね)そして、不器用なためか、楽器類もことごとく苦手で、音楽の授業は苦手でした。そして、この頃から、自分の顔や容姿に対する自意識がでてきますが、とにかく鏡を見るのが嫌で、まったく自分の顔が好きになれませんでした。そして、性の目覚めみたいなのはあり、自慰をすることを覚えますが、このときというか、その後もずっとこの行為に対する嫌悪感が強くて、よく好きな人の顔を思ってとか、写真を見てといいますが、実際に好きな人はまだ初恋の人でしたが、その人の顔を思い浮かべると、行為によって汚してしまうという意識が強く。その当時はビニ本というエロ雑誌があったので、それを買いに行くことはできなかったのですが、どこからか持ってきて、捨てられていたものかも?、名前も知らない、見ず知らず人の裸体をみて興奮して、行為を済ますということをしていましたが、その後、罪悪感に苛まれるので、これはやむなくやっていたという感じですね。
 その後、高校に入って周りは女性と付き合いたいとかいう子がいっぱいいましたが、わたしはぜんぜんそんなことを考えませんでした。そして工業高校の電気科でしたので、周りに女性が全くいない環境でしたが、恋愛したいとかそういう欲求は全くありません。高校卒業時に仲の良かった友だちとグループ旅行にいき。そこでみんなで女子に声かけてみようとかいう話がでて、わたしは合わせるふりをしましたが、まったく恋愛に興味がわかなかった。ただ、女性とろくに話もしたことがないので、そういう話に入るのもいいかなとは思っていましたが。
 それ以来、大学も工業で男子ばかりの中で、女子と話す機会はなかった。よく女子大の学園祭とかに行こうとか話は聴きましたし、合コンとかの話もありましたが、まったく興味は持てなかった。同じ高校の卒業生で同じ大学に来ていた、男子がサークルに入っていて、合コンを繰り返して、なにかその度に女性を口説き、セックスまで行ったとかの話は聞きましたが、まったく興味は持てず、考えてみればちょっと普通でないのかもしれません。あとで考えるとそうなんですが、恋愛とか全く興味が持てなかったですね。ヤらずの20歳(ハタチ)とかいう言葉がありましたが、性行為にも興味がもてず周りで風俗に行ったという話も聞きましたが、それはまったく女性差別的でお金をだしてまで行為に及ぶのはしたくなかったですね。ただまあ、セックスってどうやってするのかわからないので、ちょっと体験するのもいいかとは思っていましたが。
 後日、大学をでてから、同級生との旅行に行って、セックスの本番のエロビデオを見たことがありますが、なにかその行為、とくに挿入とかの場面は見ましたが(そしてその時は周りに合わせてなにも言いませんでしたが)野獣みたいだなとか思って好きになれません。自分でそんなこととてもできないと思っていました。キレイな女性の裸をみるのはいいのですが、セックスの行為自体は嫌悪感がありました。

 そうそう、工業高校だったので、デフォルトが就職だったのです。そして、やはり、スーツにネクタイという姿を考えるのが嫌でした。そして、高校でなんとなく電気工学を学んだのですが、この時にお世話になった先生が電験3種の受験のための特別講座を開いてくれたのです。そのときに勉強するうちに本当に電気はおもしろいと思うようになり、大学に進もうとしました。しかし、工業高校の授業科目はそもそも普通科と違うし、大学受験用の勉強はしてこなかったのでストレートで受かるはずはありません。でも親からは浪人はさせないと言われるので(そもそも国立大学に受かるぐらいでなかったら、学費はださないと言われていました)。

 ですが、工業高校からストレートで国立大学はめちゃ難関でした。しかも、英語が超苦手科目で(中学英語からすでに落ちこぼれていました)私立大学しかない、それも最低ランクところと思い、しかも下宿なんかはとてもさせてもらえないので、通学に便利なところに限られました。それで、うちから自転車で通える距離の大学を受験、昼間部(一部)を受けたのですが、ここは夜間部(二部)もあり、第一志望の昼間部は落ちましたが、二部に引っかかっていました。この頃から生活が夜型になってきます。しかし、大学の授業が一部も二部もほとんど同じ先生が担当して、昼に講義したものをそのまま夜やるということで、二部でも3年生になるときに転部制度で一部に変わり、昼間部で4年で卒業できました。(だけど朝から授業に行くのは辛かったので、テスト以外はほとんど夜の授業をとっていた)この時期はほんとうに未知の科目を自由に勉強できるのがおもしろく、まったく恋愛には興味がなかった。友人もあまり作らずに、人間より学問がおもしろかった。その頃、というか、高校のときからですが、巷でオーディオブームというのがやってきます。アルバイトで稼いだお金をオーディオセットに注ぎ込み、音楽を聴ける環境ができます。そして、大学の門の前にはレンタルレコード屋さんがあり、せっせとレコードを借りては、カセットテープにコピーをしていました。この頃に音楽の刷り込みがされ、この時に聴いた音楽がいまも好きで、新しい音楽をあまり聴こうとはしなくなったですね。

 そして、音楽ではなにか運命的な出会いがありました。フォークブームでもあったので、中島みゆきさんも聴いたのですが、谷山浩子さん「ねこの森には帰れない」というアルバムに惚れ込んでしまいました。しかし、男子の友だちに谷山浩子さんを聴く人はいなかった、どころかバカにされました。たしかに真っ当な男子が聴くものではないと自分でも思っていました。聴きながらこれを知られたら恥ずかしいという思いを抱きながら聴いたものです。谷山浩子さんは「少女」でした、いまでもコンサートに行きますが、当時のスタイルを残しています。これを好きになるのは性自認と関係するのかな?と思ったりするのですが、MTFの人の好みを聞いたりしたことはないので、いつか調べたいとは思っているのですが、といってもわたしと同世代になるでしょうが。とにかくヒット作がない、一般ウケしそうにない曲を作られるので、その頃、マイナー歌手という言葉を覚えました。しかし、この時には自分がマイノリティになるとは、しかし、この谷山浩子さんを好きになるだけでも充分マイノリティなのですが。そして、いまも活動を続けられていて、わたしはファンクラブに入っていて、コンサートが大阪であると必ず行きます。わたしにとって、谷山浩子さんも人生の支えとなっています。

 そして、大学も卒業後、大学院に進もうと思っていたのですが、うちが裕福ではないので学費をだすのが厳しい。実際大学の学費も自分でアルバイトしてだしてました。大学院となるとバイトしている時間もないかもしれないし、学費も高かった。(いまと比べると断然安いですが)大学院の試験は通ったのですが、そのとき、父親が入院します。母親は働いてないし、わたしが家にお金を入れなければいけなくなり。

 運のいいことに、そのとき滑り止めに受けていた国家公務員試験に受かっていたので、うちの近くで働けるような大阪の勤務先を何件か受験、しかし、ことごとく落ちる。まったく人付き合いが苦手で内向的だったので、面接で、管理職にはなりたくないと言って、面接官に笑われていました。大学で取ってもらえたのは幸運でした。
 しかし、当時、技官という研究室の下働きみたいな配属で、ここで頑張れば、昇進できるという望みもありません。尤も、管理職になりたくない希望は叶ったのですが。
でもいまから考えるとこのときの研究室で、学べた、研究自体に興味も持てたし、学生さんと同年代で、和気藹々とした雰囲気が好きで、楽しかった。人生の中でも幸福な時代だったと思う。いまも研究室の卒業生と連絡をとったりする。

 ここでやっていたのは、コンピュータサイエンス、人工知能(今はもてはやされていますが、当時は先端で実用化は考えられないものでした)、画像処理、画像認識とかいまのコンピュータのパワーを持ってすれば、スマホでもそれ以上のことができますが、これをやるには当時最先端のミニコンピュータを使わなければなりません。その頃パソコンはマイコンと言われ、何の役にも立たないが趣味にBASICというプログラム言語は使え、ゲームはできるというものでした。ハードディスクもパソコン用にはまだない、フロッピー(といっても8インチサイズの)が使われはじめた頃でしょうか。仕事にパソコンが平気で使われるようになるのはまだ先。

 コンピュータの勉強をしましたが、大学でやったのは電気で、少しコンピュータでプログラム組まされるということはありましたが、プログラム自体をまったく理解できていませんでした。この頃は色々と新しいことを学びました。コンピュータに関する知識はその当時は自信を持っていました。
 この頃、面白かったのはマイクロプロセッサと基盤が売られて、自作できるものがかなりあり、コンピュータやメモリのスピードと容量は日進月歩でどんどん進歩していた時代で、ハードウエア、基盤をみれば、だいたいコンピュータがわかるという原始的時代ではありましたが、いまのような、パソコンが完全にブラックボックスということはなくて、理解しやすいものでした。

 それで、コンピュータの言語もまったくわかってなかったのですが、ああいうものはトライアンドエラーで何回も修正を重ねていかないとできないものだと思います。昔大学の大型コンピュータでやったような、紙カードにプログラムを打ち込んで結果がわかるのが翌日では上達しないわけです。

 横道にそれましたが、この時期も大学の工学系研究室ですからほとんど男子学生、教官はみな男性ということで、女性と話す機会もなかったのですが、それを寂しいとも出会いが欲しいともおもいませんでした。むしろ、教授から見合いの段取りをとかいう話がでると逃げていて、結婚して家庭を築く未来はまったく、そういうことはもっと先だと思っていました。

 この研究室での暮らしと研究内容は気に入ってきたので、そのうちに研究室でちゃんと研究をものにして論文博士を取るんだとは密かに思っていましたが、その先は家庭を持つとかまったく考えてない。そういえば、母親が子離れしていないので、母親が死ぬまでは結婚はできないとは思っていました。

 そして、30歳くらいのときにだんだん研究室にずっとこもっているのが嫌になり、学科事務室にいって事務官、秘書の方たちが集まって3時の休憩みたいに喋りながらお菓子を食べたりしているのに、混ぜてもらうことができるようになり、女性の中に混じって話を聞くのが心地よかった、あの頃の癒しでした。その先は大学も世知辛くなり、大学法人化され、予算も減るし、ギスギスしてきますが。

 そこで、6歳ほど年上なのに、トトロが好きと言っている女性がいて、少し仲良くなりました。これを恋愛だと思っていたのですが、後から考えると単に友だちになりたかっただけかなとも思います。当時はまだ、男女で外で会っていると友だちという感覚がなく恋愛に即結びつき、そうなったら、もう結婚しなくてはという古い感覚でしたから。ちゃんと付き合って結婚したいと思いましたが、実はあのときには男女関係には必要であるという性的な結びつきみたいなものがまったく考えられなかった。し、そんなことが普通だとも思いつきもしなかったのですよ。だから、結婚と言ってもセックスというのがセットでついてくるということは思いもかけなかった。

 そして、まあ前の性自認のnoteでも書いたように、その先は挫折し、うつも患うわけです。そして、2000年の前後かな、両親もなくなり独り身になって、40歳も過ぎる頃、友だちの紹介でパートナーとなる女性と付き合いだします。といっても、ほとんどのやり取りがメールでした。デートはほとんどせず、直接会うことがないので性的に意識することもなくだらだらと付き合っていたのですが、周りからもぼつぼつなんとかしないとと言われ、結婚を意識しだします。これも恋愛かどうかわからない、友だち関係のようになれたらと思っていたのですが、やはり男女間では友だちで続けることはできないようでした。それで、わたしは同居すると自由がない気がして、彼女にもお母さんを一人残すことになるので、お母さんに安心してもらうために、結婚という形をとることにしました。で、最初は別居でいいじゃないかということで戸籍を入れました。結婚はいまだにそうですが、強制同姓をしいてしまいます。だいたいは男性の名字になるということはわかっていましたので、わたしはそんな性差別的なことはできないと、自分の名字を(実は変えたくなかったけれど、相手の名字はちょっと数少ないので残すということで)変えました。

 そして、わたしは大学で比較的時間的に自由が効くからと日常の家事、食事の用意、洗濯などは引き受けました。彼女の方が大会社、商社でバリバリに働いていたので、家事は休みの日にやればいいということに。そして同居するとなるとセックスの問題がありますが、わたしは同じベットで寝ているのは好きでしたが、セックス、特に挿入にはものすごく拒否感がありできません。セックスなんていざその場になればできるんだくらいのことを思っていたのですが、まったくそんなことは難しく、上に乗ってセックスするのはなにか虐げているようだし、だいたい、子どもを作ることは怖かった。(だって、妊娠したら命懸けで子どもを産むわけです。そういう目に合わせたくなかった)そしてセックスがとにかくできない。しばらくは一緒にベッドに入って、愛撫だけを行うということをしましたが。それも一週間としない間にできなくなってしまいました。なにか説明できない、彼女と一緒にいることは嫌でないのにベッドに入るのが怖くなってしまったのです。2002年に結婚してから彼女が乳がんでなくなる、2017年まで、最初の一週間以外は一緒にベッドに入ることもしていません。そして、別に性欲で困ることもありませんでした。

 わたしは普通に女性が性的対象だと思っていたのですが、この間を振り返ってみると、明らかに性的な対象を求めているわけではなかったのです。そして、最近アセクシャルとかAセクシャルという言葉を聞くようになり、テレビでドラマもやっていたのですが、これをみて、非常に近しいものを感じました。
 わたしはAセクシャルなのでしょうか?ロマンチックはどうか、これも初恋も含めても64歳現在の今までに3人それもとても淡い想いで友だちに向ける感情に近いのではと思います。現在のように男女が普通に友だちで付き合える環境ならおそらく結婚もしてない。いま現在もパートナーを失ってから孤独感を非常に感じていますが、それを埋めるのは恋愛ではないという感覚です。友だちとしてもう少し気軽に会える人は欲しいなとは思いますが、相手の感情もありますよね。まあ、性別移行してからは女性と友だちでもそんな意識はなく付き合えるのかも。実際、文学学校に入って、仲良くなって友だちといえるのは、女性ばかりです。

 いまはツイッター上で仲の良かった友だち二人にトランス差別騒ぎが大きくなってきたことが不安で焦って、性急にトランスについて聴こうとしたのもいけないかったのですが、二人と絶縁する形になってしまいました。

 もう、普段から交流がある友だちは一人だけですが、トランス差別問題はこれ以上聞く勇気すらありません。
 2021年にコロナワクチンの2度目の接種の後、あまり外出もできない、慢性疲労症候群になっています。出歩くことが苦痛なのです。好きだった映画に行くのも、疲れるからと、躊躇ってしまいます。そして、人とのつながりはほとんどSNSだけになっている現在、ツイッターではトランス差別言説が吹き荒れています。

 唯一、話を聴いて共感してもらえそうなのは小説家として大好きな、藤野可織さんです。藤野さんはトランスの問題についてもしっかり差別反対を訴えてもらえる信頼感を持っています。

 いまわたしが置かれている状況には本当に不条理を感じます。わたしが何を悪いことをしただろうか、なぜワクチン後遺症にこんなに悩まされて、孤独で一人、家にこもって、トランス差別と戦っている。トランスの若い人のために戦って、道を開かねば、と思って気力を保っています。いまのトランスの学生さんなんかに、こんなトランス差別に合わせてほんとうにかわいそう。ただでさえ、うつなど精神を病む人が多いし、聴いてみるとトランス女性はわたしも経験したように、かなりの割合で子どもの頃にいじめを経験しています。そしてトランスがトランスと出会う場所はSNSだったりするので、ツイッターが頼りという人もかなりいるのではと思います。そのツイッターがこの状態では、精神を病みかねません。自死する人ももうでていてもおかしくない。(わたし自身病んでしまいそうですが)

 わたしは最近、録画してあるエルピスの岸本くんの孤独な戦いに非常に励まされます。孤独感で死にそうなときには、このドラマを見返して、戦う勇気をもらっています。

 このツイッターの惨状を、誰かに聴いてもらいたいのですが、ツイッターをやっていない友だちにこのことを説明するだけで大変で、うっかりすると差別側に共感してしまわないとも限りません。ツイッター上の会ったこともない、トランスとアライの人が一緒に戦っていると思えるのだけが救いです。

 そうそう自分の顔がまったく好きになれなかったのですが、最近までずっとホルモン治療を続けて、女性の髪型にしてみると、だんだん好ましく思えるのです。容貌に関してはあるべき顔になったと自己肯定感がでてきました。これも性自認と関係してますね。

 ここまで文章の学校で文章のトレーニングをしてきたので、一冊の本をだすことが死ぬ前の最後の希望です。この春、京都芸術大学の文芸コースに編入しました。ここで大学院まで行ければと思いますが、通信制大学ってかなり単位を取るのが厳しそうで、ついていけるのか? 最初は2年で卒業と思っていましたが、カリキュラムをみたらこれは2年は無理、最低3年かかると思っています。でも、文芸の知識を仕入れて、トランスについて書いてみたいと思っています。最近よくだされているので、新規性はないかもしれません。

 いま64歳、あと10年くらいかな、がんばれるのは。この状態ではあまり長生きは望めそうにありませんし、長生きしてしまうとお金がなくなって自由な生活もできなくなってしまうでしょう。

 ツイッターで知って、ファンになったアナーカ・フェミニストの高島鈴さんの本にあった、「生きていることだけで抵抗だ」という言葉に励まされ。疲労感で何もできない日が続くことの多い自分を励ましています。

 フェミニズムには非常に共感したし、トランスの自分を認めてもらえるのがフェミニズムだと思っているので、フェミニストにはなりたい。アナーキストはよく知らないのですが、アナーカ・フェミニストって、抵抗の姿勢がとてもカッコいい。

 こうやって書き出してみると、ひとりぼっちの孤独感を感じていたけれど、仲間はたくさんいる。ツイッターのトランスとアライの皆さんには特に励まされています。

 がんばれ、わたし!

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