note神話部ヘッダ

夜刀の蛇神と標の杖

 国造(くにのみやつこ)としてやってきて、行方郡(なめがたぐん)に住み始めた壬生連(みぶのむらじ)は、谷の池を水鏡にして、未来を視た。
 谷の池、というのは、この谷の土地を開拓しようと思ってきてみた、その谷である。谷に、池があったのだ。
「はぁ。藤原宇合(うまかい)が好き勝手おれのことを書いてやがるな。まるで自分が見てきたかのように。おれは宇合みたいな才能はないな」
 水鏡に映る物語は、壬生自身の英雄譚である。
「歯がゆいぜ」
「あら。壬生さん、いいじゃないの。後世に名前が残るなんて、凄いことじゃないの」
「ああ、麻多智か。そうなんだよ、良い風に残るならいい。そして、良い風に残るようなんだがな」

 壬生が視た水面に移るストーリーは『常陸国風土記』の一節として残る。名誉なことだ。
 だが。
「おれの未来視は直近の未来しか見えない異能力なんだよ」
 麻多智は、壬生の横でくすくすと笑う。
「あら。この池、蛇池のようですわね」
 水面を覗き込んでいた壬生は身体を起こし、周囲を見やる。
 四方八方、赤黒く、くねくねうねる無数の蛇に囲まれていた。
「あらあら。毒蛇ですわね」
「おれを殺しに来た、ってわけだな」
 ぷしゃー、と二股にわかれた細い舌を伸ばし、歯をむき出して壬生を威嚇する毒蛇たち。

「散れッッッッ!」

 一喝すると、壬生に気圧されて、蛇たちが一斉に椎の樹に登りだし、椎の樹の上で警戒しだす。

「ところで、麻多智。お前、隠していたんだろうけど、おれには〈読める〉ぜ?」
「どういうことかしら」
「夜刀神(やとのかみ)の祭祀を司るのがお前だ、ってことだ、麻多智」
「それで? なにかしら?」

 木の上から睨みつけている毒蛇の鳴き声と幹にまとわりつく体幹を見て、それから壬生は麻多智に視線移動する。

「蛇神……夜刀神を統率してんのが、お前なんだろ、麻多智」

「うふふ。どうかしらね」
「おれはここを開墾する。これは民政のための修築であり、王化でもある。その命に従わない神を、果たして神祇と言えるか?」
「王化、ね。あらあら、役人さんらしい恐喝も出来るじゃないの、壬生連さん?」

 そっと差し出された麻多智の掌は滑るように壬生の頬を撫でる。
 抱き絡めるようにして身体を密着させ、腕を壬生の後ろにまわす麻多智。
 吐息が壬生の唇にかかる。

 だが。ここで口づけをするわけにはいかなかった。
 その代わりに壬生の口をついて出た言葉は、

「憚り怖れることなく、全て打ち殺す。例えお前が国津神、いわゆる神祇であったとしても、な」
 という、色気もそっけもないものだった。

「壬生さん。部下たちは伏兵として谷の中に隠れているんでしょ。いいわ。この蛇ちゃんたちがわたしのしもべ。部下同士を殺し合いさせるのも一興だけど……従うわ」
「すまないな、麻多智」
「あなたとわたしの仲じゃないの」
「頼む」
「山の麓に境界の杖をたて、上を神の地、下を人の田とし、社をたてて夜刀神を祀りましょう」

 ……ここで境界をわけたときの杖こそが、『標の杖』と呼ばれるものになるものだった。


 人域と神域を分類する出来事を始原として語ったものが、この話であり、後に藤原宇合により、〈かたちを変え〉て『常陸国風土記』に記述されることとなる。

〈了〉

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