見出し画像

豚の皿~新釈サロメ~


 追放したはずだった、この土地から。
 だが、男はよみがえるようにこの土地に戻ってきた。
 ネモフィラが咲き乱れる夜中の国立公園の花畑の真ん中で、男は自分を追放した女に、会釈をした。
「元気そうでなによりだ」
「なんで帰ってきたの? なんで帰ってくることが出来たの?」
 男は片方の唇をあげて、にやりと笑んだ。
「君に会いにきた。……って理由じゃ、ダメかい?」
「不愉快だわ。またお父様に言いつけなくちゃ。今度こそ、あなたが再起不能になるように、仕向けなくちゃ」
「走ってきたんだぜ? セリヌンティウス」
「なによ、メロス。って、あはは。ばっかみたい。長距離走の競技のつもり?」
 一陣の風が吹く。
 暗闇とスポットライトのなか、ネモフィラが揺れる。
 男はどっしりと構えて、自分をこの土地から追放した彼女に余裕そうに向かい合う。
「今夜は祭りだよ。競技のお祭り。長距離を駆け抜けてきた」
「それがなんのための祭りだって言うの?」
「僕が死んで、生き返って、また死ぬ。そんな祭りだよ。神に捧げる競技だったのさ」
「あなたは、この土地が好き? 追放された者が戻る土地じゃないわ」
 女は、男を政治的に、経済的に追い詰めて追放した。
 そこにはスポーツマンシップなんてない。
 実際。
 女自身、この土地が嫌いだった。
 この土地に縛られる自分自身が嫌いだった。
「あなたは、奇跡を信じるかしら」
「信じるね。この世には不思議な力が溢れている。僕がここまで走って戻ってこれたことが、もう奇跡の範疇だ」
「奇跡は、わたしに味方をする。いつだってする」
 男は顔を自分の手で覆って、笑った。
「あはは。じゃあ、再び出会えたのも、奇跡が君の味方をしたからさ」
「バカ言わないで! あなたはそうやっていつも、わたしをこけにする。気に入らないわ。お父様に早く電話をしなくちゃ!」
 携帯電話を持ったその手首を、男は掴む。
「離して! その手を離して! いや! あなたはいらない人間だわ! この土地にはいらない人間で、わたしにもいらない人間なのだわ! 離して!」
「離さない」
 ぎゅっと手首を掴む。
 女の手から、携帯電話が花畑に落ちた。
 携帯電話はネモフィラの中に埋もれた。
「祭りだ、って言っただろう?」
 男は女を抱きしめる。
 男の手の中で、女は泣く。
「帰ってこないで、って言ったのに。帰ってこないように、追放したのに」
 男は、
「君が現代のサロメである必要はないのさ」
 と、言った。
「サロメ?」
「自分が殺してからも復活した聖人の首を所望した女性の名前が、サロメだ。知らないとは言わせない」
 男は抱きしめている女のくちびるを奪う。
 女は首を振って、抵抗する。
 が、抵抗する気も失せて、口腔内に舌が這うに任せた。
 しばらく、くちびるを重ねていた二人だったが、女は男を振りほどくと、睨み付けた。
「皿の上に、あなたの生首をのせてさらし者にしたいわ。わたしが殺した男。わたしだけがあなたを殺せる、それを確認するために」
「僕は君を奪えない。くちびるくらいだよ、奪えるのは」
 男はまっすぐ女を向いたまま、後ろ足に、後退して距離を取る。
「ピストル。そのハンドバッグのなかに入っているのだろう?」
「安物のマカロフだけどね。入っているわ」
「撃てよ。僕を」
 女はマカロフを取り出すと、それを震えながら構えた。
「本当に撃つわよ」
「撃てよ。皿の上に僕の生首を乗せるんだろう?」
「最後まで、あなたはバカな男ね」
「言われなくとも」
 男はクスッと微笑む。
 悲しい目をしている。
 その悲しい目を見据えてから、女は息をのみ。
 それからマカロフの引き金を引いた。
 発砲音。
 バン、バン、バン。
 男の胴に三発、ピストルの弾丸を撃ち込んだ。
 男が倒れる。
 血が吹き出る代わりに、それはネモフィラの花びらとなって散った。
 男の身体も、ネモフィラに変わり、風に吹かれて消えていく。
 すべてがまぼろしのようだった。
 その男は、まるで最初から存在しなかったかのように、かき消えた。
「バカ。なにが競技よ。なにが長距離走よ。祭り? 嘘ばかり。あなたはいつだって、そうだった。バカで、くずで、傲慢で、わたしにいつも楯突いて……」
 その場に崩れ落ちる女。
「好きだった。でも、あなたはもう、ここにはいない」
 マカロフを自分のこめかみにあてる女の顔は、泣きじゃくってメイクもなにもあったものじゃなくなっていた。
「ここはあなたのいない世界。奇跡はいつだってわたしの味方だった。この土地に縛り付けられることと、あなたとの距離を遠ざけられたこと以外では。さよなら。これが祭り……ね。鎮魂のための。あなたと、……そしてわたしのための」
 マカロフをあてたこめかみから、汗のしずくが落ちる。

 発砲音が、揺れる一面のネモフィラ畑に、吸い込まれていった。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?