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この文は引き出しの中に

この記事は友人であるりょっちに誘われてCoaching Advent Calendar 2022のために寄稿した文章です。

「あんたのブログ、見つけたわ」

母は僕のホームページを開いて、読み始めた。なんの前触れもなくそう言ったから、僕は頬張っていた晩飯で喉を詰まらせそうになった。

冗談だろ?どうやって見つけたんだ。

確かに僕は自分のホームページを持っていて、そこでブログも書いている。ちょうど2年くらい前、前職を辞めたタイミングで始めたものだ。
当時は時間に余裕があり、日常の記録程度のつもりだった。それが現在まで2年ほど毎日書き続けており、いつの間にやら新書が軽く5冊は出せそうな分量になっている。

とはいえ、それは僕が普段考えることや観察したことを徒然なく書き連ねたもので、他人に見られることを意図していない。いわば「チラ裏」だ。
だから、サイト名に本名は使っていないし、ブログにも個人情報と結びつく内容はほとんど書いていない。

それなのに、なぜバレた?

「おばあちゃんが電話してきてね、『僕ちゃんは有名人だねぇ』って。」

なるほど、きっかけは祖母だ。
父方の母にあたるこの人は、平成初期の昼ドラにいるような小姑とは真逆で、母ととても仲がいい。ことあるごとに母と連絡を取り合っては、父や僕たち兄弟に関する情報交換をしている。
ある日、祖母は友人から僕の名前をGoogleで検索すると、顔写真や幾つかのネット記事が出てくることを聞いた。(なぜ祖母の友人まで僕の名が知られているのかは、この際どうでもいい)
若者諸君なら分かる通り、これは別段、珍しいことではない。今や誰もがFacebookで顔写真を載せているし、人前で活動していれば多かれ少なかれ人の記事に名前が出ることもある。
だが昭和初期の世代にとっては、インターネットで出てくる=有名人という勘違いの方程式が成り立つ。祖母は母に電話で伝えたのだ。

一般的な親ならそれを聞いて、同じようにGoogleで多少検索して「確かに出てくるわねぇ」程度で終えるはずだ。
母は違う。
彼女はまずそこから僕に近い友人や仕事仲間を見つけた。そして、彼らのSNSやネット記事を漁った。その中の一つに載せられたリンクから僕のホームページを見つけたのだ。
そういえば数ヶ月前、僕はある友人にブログのリンクを教えたことがある。少し書いたものを読んでもらおうと思った故だった。
だが、リンクを載せていたことは僕自身でさえ知らなかったし、分かっていても絶対にバレないと思ってほとんど気にしなかっただろう。

「だけどホームページに僕の情報は載ってないはずだろ。どうして分かったんだ?」
「そんなもの、いくらでも知りようがあるわよ。手がかりはブログの中にもたくさんあったわ。特に初期の記事は、仕事を辞めたばかりだったからなのか、浮き足立ってるし脇が甘々ね。」

だとしても、そこまで遡って調べる人はいねぇよ、と心の中で呟いた。
母は昔、記者になりたかったそうだ。30代の時は新聞向けにちょっとしたコラムを書いていた時代もあり、よく取材にも行っていたらしい。
徹底したリサーチ力と、鋭い嗅覚とも呼べるものを、なぜかこの人は持ち合わせている。
とはいえ、それを息子の情報探しで発揮するなよ。




それからというもの、母はよく僕のブログの話をするようになった。
それもそのはずで、僕自身は家族にあまり自分の近況や考えていることを話さない。食事の時も、聞かれれば多少返事をするくらいで、自分から積極的に話すことはない。
断っておくが、別に母を嫌っているわけではない。ただ、僕自身じっくりと内省するタイプで、そのせいか些細な日常会話に意識を集中するのが苦手だ。
だから僕と会って間もない人たちには、秘密主義者だと思われてしまう。

家族にもそんな調子だったからか、母は僕との広がらない会話に困っていたのかもしれない。そんな時に見つけた僕のブログは、まさに絶好のネタだったのだろう。

「池田晶子って、賢くて素敵な女性ねぇ」

母が読んだのは、おそらく2ヶ月くらい前のブログの記事だ。
池田晶子は哲学者であり、文筆家だ。21世紀初頭に「哲学エッセイスト」として多数の著作を出している。哲学というと難解なイメージがあるが、彼女の本は日常に寄り添った言葉が使われており、そのため哲学に馴染みのない主婦層の人たちにも人気だった。
僕も一時期、彼女の著書に多く触れていた。

「彼女のどんなところに惹かれているの?」
「死生観かな。彼女は言うんだ。『大抵の人は死を、いつか先の、自分とは別のことだと思っている。死を、今のここだと思っていない。なぜ思わずにいられるのか、それが私には分からない』」

池田晶子は、46歳でその生涯を終えている。すい臓癌だった。彼女の死後にも、いくつかの著書が彼女名義で出版されているが、それは彼女の夫を始めとする有志によって再編集されたものだ。

『もしも人が、人生は一度きりである、ということを前提に、その意味を求めようとするならば、生における、死の位置を明確にしておくことなしにはそれは不可能だ』
『ならば、死はどこにあるか。私たちは死を、生のどこに見出すことができるのか』
『いまのここ、と私は言った』

「なんだか、難しい話をしているのね」母は言った。

『生を、生たらしめているものは、生ではないもの、すなわち死である』
『瞬間、瞬間の生を、瞬間、瞬間の生たらしめているものは、瞬間、瞬間の死である』
『死は、いまのここにある』

そうだ。だから僕は、ブログを書く。それは、いまのここにある死と生の瞬間の記録であり、そして・・・。

「それにしても、彼女はとても美人だったのね。あんたが惚れるのも分かるわ。美人薄明っていうし、私も生い先長くないかしらね」

母がボソッと呟いた。
なんだ?池田晶子に嫉妬でもしてんのか?
確かに彼女は40半ばには見えないほど美しい見た目をしていた。僕もブログで「その美しさに衝撃を受けた」と熱弁してしまっていた。
だが、故人の人妻に母親が嫉妬心を燃やす構図は気味が悪いから勘弁してくれ。

「母さんだってすごいじゃないか。僕や姉兄含め3人の子供を育てているしさ。薬剤師としてめちゃくちゃ勉強して講演とかしてたの知ってるよ」

「そんなの過去の話よ。私は、あんたたちがしっかり育ってくれているようで安心したわ。末っ子のあんたも、ずっと子供だと思ってたけど、私が思っているよりずっとすごい子だったわ」

あんたの調査能力の方がよっぽどすごいよ、と思ったが言わなかった。
そういえば、母に対して自分の考えていることをちゃんと伝えるのは数えるほどしか無かった気がする。
ブログを読むまでは、母の中の僕は止まったままだったのかもしれない。

その夜、僕は母に向けてちょっとした手紙を書いた。
この歳で面と向かって話すには、ちょっと気恥ずかしい言葉を綴った手紙だ。
直接、渡しはしない。目の前で母に手紙の感想なんて言われた日には、僕はその場から一刻も早く去りたくなるからだ。

だからこの手紙は、僕の部屋の引き出しの中にしまっておく。
母さんのことだ。きっと持ち前の調査能力で、僕が上京したり結婚したりした後に、部屋の中を勝手に捜索するに違いない。

どうせだったらこの文も見つけてみろ。
できるなら数年後、勝手に見つけて勝手に読んで、勝手に喜んでくれればいい。





母が亡くなった。急死だった。

僕が病院に駆け込んだ時には、もう息を引き取っていた。
突然のことだったから、父も僕も姉兄も、何も準備できていなかった。
その日の朝まで普通に話していた僕にとっては、全く現実のことに思えなかった。

それから数日間は、葬儀や様々な手続きで、慌ただしく過ぎていったように思う。
落ち着いて考える余裕がなかったのは、現実を直視できない今の僕たち家族にとってむしろ好都合だったのかもしれない。

葬儀を終えて居間に骨壷を供えた後でも、なんだか母がひょっこりと現れてくるような気がしてならなかった。
遺影は生きていた時の顔そのままだ。不思議と僕は涙を流せずにいた。

自分の部屋に戻って、僕は引き出しを開けた。
あの時書いた手紙は、いまだ開封されないまま、静かにそこにあった。
僕はこの文を残しておくべきなのだろうか。
もはや見つけられることのないこの文を。

ふと、池田晶子の言葉が頭をよぎった。
『瞬間、瞬間の生を、瞬間、瞬間の生たらしめているものは、瞬間、瞬間の死である』
『死は、いまのここにある』



葬儀を終えてしばらくの後、僕たちは母の持ち物の整理を始めた。
僕が居間の掃除をしていると、母さんの部屋を担当していた父が僕に声をかけた。

「これ、母さんの引き出しの中に入っていたぞ」
渡されたのは一冊のノートだった。表紙には『R4.2.23~』と書かれている。
父が言うには、ノートは洋服タンスの奥の方に入っていたそうだ。普通に引き出しを開けただけでは絶対に見つからない場所に。
おそらく、父や僕が家にいない時を見計らって、こっそり書き続けていたのだろう。

「少し開いてみたが、おそらく日記だ。俺のこととか、お前のことも書いてあるぞ。他にも数冊あった。ううん・・・こんなの付けてたなら俺に教えてくれていれば良かったのにな」

そう思う。母もまた秘密主義者だ。でも、気持ちはわかる。
こういうのは、気恥ずかしくて、誰にも見られたくない・・・だけど、それはいまここにある死と生の記録であり、
そして、そしていつか、自分の預かり知らないところで誰かの記憶に残ったらいいって、
そう思って書くものなんだ。

「母さんの日記、見つけたわ」
僕は手元のノートを開いて、読み始めた。

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