松之山 旅中記【4】5月18日 晴天
おてつだい前の1時間、
最近参加している「大学の素読会」(zoom)に顔を出しました。
ここしばらく、
ただでさえ忙しい旅館の皆さんの手を煩わせている感覚に
悪いことをしている気がして、お腹を壊したりしていたんですが
そんな中に
「大学」の一節に思いを馳せる時間があって
少し落ち着きを取り戻せたような気がしています。
六中観のひとつ、「苦中楽有り」ですね。
つい、
いま自分の身に起こっていることに引き合わせて考えちゃうので
集団組織の中にあって「悪」になっている自分の立場を鑑みたとき
という見方で、この一節を考えていました。
人に才能があるのを悪む(=嫉妬する)のは、
自分に自信がない状態だったり、
自己効力感を感じられていない時に起こる心理状態だよな
というところから発想して、
自己効力感を感じられていない今、
もしかすると人を妬んでしまうかもしれない(現時点で自覚はありませんが)
そんな立場にあって、何かを「悪む」ことがあった時には、
「子孫黎民を安んずるために何を悪むか」を問い直す必要があるんだろうな、
と思いました。
何かを「悪む」とき、
まず、不快感情を抱くことになると思うんです。
不快感情は、危機に対するアラームだからです。
組織のためにならない人に対するアラームというのは
結構、判断が難しいものだと思います。
才能がある人って、良くも悪くも集団から抜きん出ているわけだから
多分、ある種の不快感情を与える存在でもあると思うんです。
仁人が悪み追放するような悪人が抱く「妬み」というのは、
「個」の安全を脅かされているときに感じるアラームなんだと思うんです。
地位を取って代わられる危機とか、
居場所を失う危機とか、
安全地帯から移動しないといけなくなる
というリスクへのアラームを思い浮かべています。
でも、このアラームが「個」を守るものである以上、
組織のためにはならない判断になりかねない。
組織より当人自身の「個」を優先する人は、
組織全体を安定させるためには危うい存在になる。
だから、そういう人こそ、組織には「悪」になる。
仁人は、
その悪むべき人を「国外に追放する」という一見厳しい対処をする。
でも、この追放も、私は仁愛なんだと思います。
とかなんとかいうフレーズが頭の片隅に引っ掛かっています。
本人が自己効力感を感じられていないということは、
おそらく、
その人の能力がちゃんと発揮できていないということだと思います。
その組織ないし状況において、「悪」は少なからず
針の筵状態に居る…(共感)
古事記にある、
イザナギ・イザナミの二柱の神が最初に産んだヒルコを不具だとして祓い流し
ヒルコは流れ着いた先で恵比寿神としてその土地の人々に崇められたというエピソードを思い出しました。
つまり、その「悪」の居場所は、別にあるかもしれない、ということです。
我の強さは、エネルギーの強さでもある。
別の場所で、そのエネルギーを活かせるかもしれない。
…とても偏った見方かもしれませんが。
リーダー的な立場の人って、
さまざまな傾向の人間を受け入れて、活かすことができることが
評価されると思うんです。
その社会で「悪」とされる人を「更生させてあげる」ことも
一般的には良しとされるんじゃないかと想像するんですが、
それが本当に「悪」のためになるか、を考えた時に
「更生させてあげる」ことが、「囲い込み」や「飼い殺し」になる側面もあるよな
とも思えるんですよね。
この、追放するかどうかの判断にすらも、
どうすれば「悪」を活かすことになるのか、
という視点があるんじゃなかろうか
というのが、大いに私見の入った私の解釈です。
仁人能く人を愛し、人を悪むを為す
というのは、
本当にその人のためになる判断をするのは、
人をよく見ていないとできないこと。
自分自身をよく見つめ、日頃から感情の機微を観察しているからこそ、
人のことがよくわかるし、人のためになる判断ができる。
仁人である条件には、「人をよく見ていること」がありそうだな
となんとなく感じました。
そんなことを考えた後のおてつだいは相変わらずのポンコツでしたが、
とにかく黙々と、粛々と、ただ目前のお仕事に徹することに専心しました。
もう、それしかできないんで。
そんなこんなで
どうにかその日のおてつだいを終え、
ちょっとそこまで買い出しへ。
コンビニで買ったもろもろが、合わせて777円。
「いいことありますよ」と店員さんに声をかけてもらい
気分が浮上したので、その勢いに乗って
お宿のすぐ向かいに売っている「しんこもち」を買って
食べてみることにしました。
美味しかったです。
いいことありました。
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