私がしっくりくる「悪人正機」
最近、この言葉がよく目につきます。
善人なおもって往生をとぐ。いわんや悪人をや。
by親鸞(『歎異抄』)
「悪人でさえ往生するのだから、まして善人は言うまでもない。」
勧善懲悪の視点から見ると、この言葉には違和感を覚えると思います。
この言葉について、一度自分なりの解釈をしてみたことがありました。
文献をもとに理屈で考え抜いた結果というより、
当時の実感としてあった感覚をもとに導き出した考察だったんですが、
当時のメモには、こうあります。
そもそも悪ってなんぞ?
これは私の偏見なのですが、
自分の正当性をわざわざ主張する必要がない場面において
人間が自分を「善人」だと公認しているときは、
ある種の視野狭窄に陥っている状態でしかないと思っています。
(何かについて勝手に善悪を判断した上で、自分を善に振り分けている点で)
そういや、渡辺京二さんは、親鸞の生き方を
「煩悩をもちながら徹底的に生きた”自分を匿さない”生き方」
だと表現していました。
そもそも「悪」というのは、
「その場にそぐわない善の表出」
あるいは「行き過ぎた善」
だと聞いたことがあります。
それを辿っていくと、おそらく根源の部分では、
善も悪もあってないようなものなんだと思います。
私自身、一般的でない価値観を形成してきた自覚があるので、
自分の価値観において強い怒りを持つ対象はあっても、
それをもとに善悪を決めてしまうことには、
畏れのような感覚が強いんですよね。
なので、私は善悪よりも好き嫌いで物事を判断します。
自分の中の「悪」には目を瞑って(隠匿して)、
勝手な偏見を他人に押し付けて憚らない人が嫌いだし、
自分の我慢を周りに投影して、
周りにいる誰かの足を引っ張ろうとする人が嫌いです。
そうならずに済むよう、
自分を凝視する時間を、大切にしていこうと決めています。
…過去に経験した「不愉快な記憶」を思い出して、
攻撃的な物言いになっているかもしれません。
これもまた、私の偏見になりうる要注意ポイントですね。
モトデをかけずにホンモノは掴めない
当時(2017年ごろ)の私が惹かれた考え方があります。
孤独の中で自分の影を凝視しつづけるタフネスに憧れたんだと思います。
実は、
先だって、お盆のお墓参りでご先祖様に
「私なりにやっていこうと思う」旨をご報告しました。
自に由って立つ宣言をしたつもりでいます。
堕落している気はさらさらないんですが、
世間(を構成する一部)の(誰かにとって都合の良い)「常識」を
度外視して生きると決めたので、この調子で行くと
「ハミだし者」にもなり得るんですよね。
…知らんけど。
バカでワルくて臆病な自分も認めて、
その全霊を賭けてハミだして
人生すべてを面白がって生きていく。
なんかかっこよくて好きなんで、
この調子で進んでいこうと思います(呑気)。
2023年8月22日 拝
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。