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作家になりたいのだと気づいてからの一年とそれまでの十何年か


 作家になりたい、それも児童文学をやりたいと明確に思い始めたのは2023年の1月だった。

 そこから無茶を承知で三月末締め切りの講談社児童文学新人賞に向けて長編を書き始め、当然間に合わず、4月ごろに完成させたものが、夢追い人としての初めての作品だ。
 書きあがったものを持て余しつつ、すぐに次の作品にとりかかった。
 児童文学をやる、と決めたとたんに、書きたいものはいくらでも思いついていた。それは、おそらく、長年ため込んできた児童文学への思いが一気に噴出しているからだろう。これが途切れる可能性も頭に入れつつ、今はとにかく手を動かしている。しかし、それだけため込んでいた思いに、どうして今まで気づけなかったんだろう。


 思えば小学生の時から、読むことや書くことに放課後を費やしていたけれど、作家になりたいと思うことはあまりなかった。というか、思えなかった。
 とにかく物語との対話に一生懸命で、その中では読むことも書くことも同等であった。幸いなことに、一緒に物語を書いたり、読みあったりする友達がいた。それだけで十分に忙しくて、将来を思い描く余裕なんてなかったのかもしれない。


 物語を好きでいるだけでなく、そう思っている自分自身について考えられるようになったのは、社会人になって一年がたとうとする冬、ようやくであった。

 きっかけは、はっきりと上げることができる。
 小学生の時に出会って、以来、私が最も影響を受けた作家のひとりが、高楼方子さんだ。「先生」と呼びたいくらいに、私の好きなものの源で、人生の潤い。
 22歳の暮れに、ふと、また読みたいと思って図書館で借りた『ルチアさん』という本。これも高楼さんの作品だった。

 図書館で児童書を借りる癖は、秋くらいから現れていた。高齢者介護の仕事についた反動なのか何なのか、それは何でもいいや。

 読み返して出会ったのは、ここではないどこかを心に満たしながら、「ここ」に根を下ろす、幸福論。

 小学生の私はこれを読んでどう受け取ったんだろう。覚えていない。だけどとにかく大好きな本だった。
 子どもの頃に好きだったものたちこそ、今の私にとっては「ここではないどこか」だ。それによりすぎては、「ここ」にいられないという危機感から、子ども向けではない小説をいくつか書いてきたのかもしれない。
『ルチアさん』には、両方に根を下ろすという哲学があった。

 勢いに任せて、これも大好きだった『時計坂の家』を買って、読み返した。
 
 ああ、そうだ。こういうの、書きたいんだった。


 もうひとつきっかけを上げるとしたら第五回笹井宏之賞候補に選んでいただいたこと。
 出せば、プロに読んでもらえるのか! 
 今までうっすらとあったハードルが急に薄れた。


 そう、気づいたら、社会との距離がなくなっていた。

 社会とかかわりあっている、自分も社会に働きかけることができる、という自覚。社会の中に自分を位置づける感覚。子どもの頃にはなかったものだ。それを一年間企業で働いて、ようやく、手に乗せて、見つめられるようになったのだ。
 多くの人はもっと早く気づくのかもしれない。遅すぎた。だけど、私にとってはこれがもっともよいタイミングだったのだと思う。


 小説は時々だけど継続して書いていた。ずっと「自分の文章は好きだけど面白い話が書けない」と思っていた。
 それでいい、とすら思っていて、うっすらと逃げの姿勢をとっていたのだと思う。だけど、児童文学を意識して書いたら、びっくりするくらい、「面白い」話を書けたのだ。
 ピアノ教室に通う女の子の物語。自分の好きなものをとにかく詰め込んだ話だ。
 ずっと「好きなもの」だけで書いて行けるとは思わないが、とにかく、ああ、私は子どもだった時の自分のために、面白い話を書けるのだと、思うことができた。
 ネットに小説を上げたり同人誌にしたりすることはずっとやっていた。が、ネットや同人誌では、子どもだった時の自分には届かない。
 図書館、図書室。そこに並びたい。

 というわけでプロの作家を目指すことにした。

 平行して取り組んでいたのが、二人展「besto」だった。
 絵に物語を添えていく。童話の体裁をとりながら「不条理」を盛り込んだ。これも「書く人」としての意識付けになっていたなと思う。


読者との出会い


 職場の休憩室で本を読んでばかりいたから、本が好きな同僚に話しかけられた。その方の娘さんも、本が好きで、お話を書いている子だと教えてくれて、まるで自分の話を聞いているようだった。
 3月ごろ。ちょうど最初の長編を書いている時だった。調子づいていた私は、公募に出そうと思って書いていることを話す。
「出来たら読ませてね!」と繰り返し言っていただいた。

 締め切りを2週間も過ぎてから完成したそれを、朝、その方のロッカーに入れた。約100000字の長編を、受け取ってくれたことがまずうれしかった。
 長いからゆっくりでいいですよ、なんて言っていたのに、翌日会ったその方は、「一気に読んじゃったから寝不足だよ~」と。
 え、あの文量を一晩で!? 
 信じられない気持ちだった。どれだけ自信になったかわからない。
 後日、その方と、中学生の娘さんからも感想の手紙をいただいた。バス停で繰り返し読んだ。今も手帳に挟んである。「面白くて読むのをやめられなかった」……こんなにうれしいことがあるだろうか。

 同時に、浮かれてばかりもいられなかった。中学一年生の女の子からの手紙は、あまりにも重い響きを伴っていた。
 すなわち、私はこれから、読んでくれる子どもに恥じない生き方をしないといけないのだ。

 子どもだった自分のためだけじゃ足りない。もっと世の中を知り、抗議するべき時には抗議をし、言葉にすることを恐れずに生きていきたい。 
 いまだに私は「世の中を知る」の段階の途中にいる。子どものための物語を書くためには、大人にならないといけないのだ。

朗読カフェを通して


 この年の貴重な出会いはまだまだある。演劇ひろばさんとのコラボ朗読カフェ。
 自分の作品を人に朗読していただくというとんでもない経験。作品が自分から旅立っていくことのよろこび。作品を手放しつつ、引き受けること。
 これがきっかけで、演劇ひろばさんのもとで戯曲を書く勉強をさせていただくようになった。今は見様見真似で演じる人のいない戯曲を書いてみたりしている。
 人に届けるために書く。ほとんど自分だけのためにやっていた同人活動と、これからは、まったく違うものになる。


 とにかく書く、書いていく日々が続いた。
 この一年で、中編を二本、長編を二本、掌編を二本書いて、中編と掌編は公募に出した。ときどき、友だちや同僚に読んでもらいつつ、基本は一人で書くことが多くなった。表には出さない。公募用の文章を書くために、絵や漫画、同人誌用の文章を書く時間を削った。それもそれで楽しい日々だ。
 だけどそれだけじゃ足りないと、すぐに思い知った。
 人と会わなければ。
 お世話になった知り合いに、お子さんができたことも大きかった。
 子が生まれたよ、と連絡をもらった時、私は震えた。この瞬間から、私の夢は、「追いかけるもの」になったのだと思う。
 それまでは、過去の自分と繋がるための手段、という意味合いから本当に抜け出せてはいなかったのだ。追いかけるというより、なぞるものだった。
 いや、違うでしょ。
 今の子どもに届けるつもりで書かなければ。
 生まれたばかりの誰かの成長に、振り落とされまいと、追いかけるようにして書いていくべきだ。
 子どものための物語を書くって、そういうことじゃないのか。
 とりあえず、あと十五年は少なくとも諦めないでやる。夜のバス停でそう決めた。
 それならば、一人で黙々と書くだけではだめだ。
 削ってきた絵や漫画や詩歌だって、何かのきっかけになるかもしれない。人とのコネクションだってもっと貪欲に生かせるはずだ。
 涼しくなってきた頃から、短い童話をネットに上げるようになった。
 公募用のものを書きつつ、表にも出していこう。

 連絡を取ろうと思った。
 まず、小学生の時に通っていたピアノ教室の先生。ピアノ教室の経験がなければ書けなかった物語がたくさんある。二月に書き始めた長編だってそうだ。
 思えば、そこは幼い私が何かを書いて読んでもらう場でもあった。
 ピアノ教室といっても格式ばった感じではなく、同い年の子たちと一緒に、同い年の子のお母さんに教わりながら、ゆるやかに音楽をする場所だった。私はそこでもお話を書いて、絵を添えたりなんかして、一緒にピアノをやっていた女の子たちに披露していた。
 あの空間で、またおしゃべりができたら、発見があるかもしれない。
 通っていた当時は携帯電話なんて持っていなかったし、連絡先もわからないから悩んだ。幸い、母親の携帯に連絡先が残っていた。まだ有効だった。

 次に連絡をしたのは、一昨年に知り合った絵本屋さんだ。
 作品を快く読んでくださったこともある。いろいろとお話もした。が、もう一年くらい会えていない。
 知り合ったきっかけは、友だちが私のエッセイをその方に紹介してくれて、気に入ってくださったことだった。
 2022年の春に書いた文章。ウクライナ侵攻の報道が始まった時の物だ。まだ児童文学作家になろうなどとは思っていないときの文章を、読み返してみたら、こう書いてある。

子どものために作られたものは、感情のひとつひとつにとても優しい。
怒りたい時、笑いたい時、泣きたい時、ぜんぶに寄り添ってくれる。
悲しい時は泣いていいのだと、そこにあるものみんなが言ってくれるのだ。
気づけば抑制していた私の感情のひとつひとつをみつけて、思い出させて、撫でてくれる。

優しいものが優しくあれて、感情をないがしろにしない世界が良い。
私はそれが良い。

 ああ。
 思うことって、別に変わっていなかったのか。
 そこに書かれていることは、夏から秋にかけて心を費やして描き上げた長編と同じだった。

 感情論を大事にしたい。
 綺麗事だと言われる。だが綺麗事こそ、手放してはいけないものだ。
 わたしたちは善性の部分でわかりあえる。この世界は生きるに値する。
 それを否定しながらでしか日々を生きることができないような世界だとしても、綺麗事を書くのだ。
 虐殺が起きている。差別がはびこっている。貧困が染みになって町中にある。自然災害の前で人はあまりに無力だ。
 それでも。


 などと物語の中で言おうとすると、なんだかずるい大人の言い訳じみたセリフになってしまうから難しい。
 子どもを意識したものを書くほどに、自分がしょうもない大人になっていることをつきつけられる。
 それでも、何かをしようとするとき、子ども時代のつながり、好きだったもの、続けてきたこと、続けられなかったこと、いろいろが新しい光を灯しはじめる。

 高齢者介護の仕事だってそうだ。一見、児童文学とは真逆のようにも思えるけどそうではない。
 それぞれの老いや語りに耳を傾けていると、ふと、その人の子ども時代の残滓が垣間見えることがある。私は彼ら、彼女らに学び続けている。


 自分自身について考え、社会と関係している自覚を持つことが、大人になることだとしたら、ただ物語への愛に浸っていられた子ども時代の方が幸せな面もあるだろう。
 だが私は今、幸せだ。
 大人になることは、かなりしょうもなくて、それでいて幸せなことだ。


 ところで「子どものため」と繰り返し言っていると、「子どものためだけじゃない」と言われることあるけれど、私はそのたびに首をかしげる。
 子ども向けのものを大人も楽しむのは、それは見る側が決めることだからいい。が、第一に子どものためのものを、という意識を作り手側が見失ってはいけないと思う。


 夢ができてから、音楽の聴き方も本の読み方も変わった。
 叶わないのかもしれないと何度も思う。これからも。
 だけどやっぱり物語を書くのが楽しい。
 楽しいと思えることは、夢を追うようになる前の十何年分でできた花束だ。
 子どもの頃に書いた物語を読み返す。アイデアメモ帳も全部とっておいてよかった。
 楽しむことが、世の中を変えるんだよ、きっと。
 私の書いた物語を楽しんでくれる人がこの先の世界にいたらいいなと思う。
 そのためなら、楽しい中にある、ままならなさや苦しさも、我慢してみようじゃないか。


 最後に、今年の自分を何行か使って鼓舞しておこうと思う。抱負というか、やりたいことはたくさんある。

・言葉にする
「言葉にできないから物語にしている」ことが多すぎるなと思う。「物語にする」こともひとつの手段ではある。が、言葉にして、そこから掘り下げていく、という作業が必要な時代じゃないかと思う。

・漫画本をつくる
同人活動の話。これはずっと前から計画していた。文筆とはやや離れるけど、何事もチャンスになるだろう……という期待も込めて。

・演劇の企画をする
少しずつ、少しずつ動いている。

・子どもと関わる機会をつくる
圧倒的に足りていないのがこれ。昨年暮れ頃からボランティアをやりたいと思って調べたり連絡をしたりはしたけれど、スタートには至れず。でもこれをやるには、体力との兼ね合いを考えて、現職を辞めるか減らすかするべきだろうな。

・パスポートを取得する
世界を見たい。その準備だけでも。



 また考え方が変わったり、あるいは挫折をしたり、夢が叶ったり、新しい夢ができたときに、この文章を読み返そう。


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