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バルテュスの哲学する少女
現在、絵を観て「本当みたい!」という褒め言葉が果たして使われるのでしょうか?私が絵画に触れてきた歴史のなかでは、少なからず登場した言葉です。
「本物みたい!」な絵が、何故絵画でなくてはならないのか、そういうようなことをこのブログでは、紐解きたいと思います。
第一回目はバルテュスの絵画を考察したいと思います。
《夢見るテレーズ》という少女のスカートがはだけてショーツが見える絵がとても有名でスキャンダラスだとも言われていますが、一見、エロティックなこの絵のポーズとは対象的に少女の表情はとても知的です。
また、画家の最後のモデルのアンナという少女は写真では何百年も少女だったかのような佇まいで写っています。
バルテュスの描く少女たちはエロティックとは対象的な表情をしているのです。《街路》では小さな小さな少女の顔が異様に子供らしくない顔をしているのが印象的です。
バルテュスは少女を「この上なく完璧な美の象徴」「神聖かつ不可侵の存在」「少女のフォルムは、まだ手つかずで純粋」なのだと、ロリータでは無いのだと、「バルテュス、自身を語る」でも言っています。
バルテュスの少女の放つ卵のような光りは何なのでしょう。
バルテュスの少女はみな一様に哲学する顔をしています。
バルテュスの少女たちはみな肢体を変にクネらせていますが、私は、子供はよくこんな不思議な格好をしているな、と思います。
絵画というマジックの中では様々なことが可能になります。生と死のメタファー。描く対象は時を止めて絵画の中に留まります。そして止まった時は悠久の時の流れとなって絵画の中に流れます。
《コメルス・サン・タンドレ小路》は、淡い色調の街並の中央を画家らしき人物が後ろ姿で歩いています。画家が歩いた場所はみな夢の中になってしまうかのようです。
現実を横断して、夢を横断して、時を横断して一枚の絵画が出来上がる。
少女の哲学する顔は夢を見る顔です。夢を見る少女が、少女の時にしか現さない肢体で描かれています。また少女の時にしかしない遊びに興じています。
画布の上に留まる魔術を感じさせます。少女はもはや少女では無い不可思議な妖精となってキャンバスに息づいています。それが卵のような光りとなって現れます。
絵画というのはそのようなことが可能な空間なのです。
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