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モラルハザード-炊き出しの経験から考える-


炊き出しの経験

新宿駅付近の道には、多くの路上生活者の方がいる。炊き出しをする前の私の中のイメージは、私たちのような炊き出しを行う人間をありがたい存在として受け入れ、炊き出しを行う私たちは、その感謝の念をモチベーションにまた炊き出しを行おうと思い、活動を続けていく。こういう暗黙のルーティンが存在しているのだと思っていた。しかし、実際のところは全く違っていた。路上生活者は、私たち炊き出し組を見かけると、続々と近くに寄ってきて、食の支給を求めた。私たちが作ってパックして持ってきたプラスチック容器に入ったカレーとペットボトルのお茶を受け取ると、小さな会釈のみか、お礼を言わないまま去っていく人さえ見受けられた。また、別の人は、受け取ったにも関わらず、ずっと私たちのそばにおり、さまざまな話をしてきた。その時感じたのは、私たちが食糧を持ってくることよりも、話し相手が来ることに重きを置いているのだ、ということだった。あるいは、食料提供を当たり前の行為であると考えているのかとさえ思った。


また、ダンボールが置かれている(路上生活者の方が住んでいると思われる)ところには、人がいるいないに関わらず、配布を行った。寝ている可能性もあるので、十分に注意を払うように指示を受けた。この時の状況としては、私たちの方が遜った立場になっていた。別に路上生活者と私たちの間に確固たる立場の差があるべきだと思っているわけではない。いろんな要因を経て路上生活を強いられている人もいるだろう。だから、そうした人がまた社会に復帰するための手助けや、心的サポートをするというのが、私たち炊き出し者の任務なんだと思っていた。でも現実は違った。この乖離を私はすぐに受け入れることができず、意義を見出せなくなってしまい、2度目以降この活動には参加できていない。しかし、今回の経験に対するモヤモヤを腑に落としたく、もう一度向き合ってみようと思ったので、そのことについて述べていきたい。


モラルハザード

モラルハザードという言葉がある。倫理観の欠如、倫理観や道徳的節度がなくなり、社会的責任を果たさないことと定義されている。今回の私の炊き出しの例に当てはめて言えば、私たちのような支援団体が支援してくれるなら、自立しようと思わなくてもいいや、と思い込んで、なんの努力もしようとしなくなることではないかと思う。炊き出し者の存在が、社会復帰や路上生活者の生活支援を促すどころか、甘えややる気(社会復帰に対する)の喪失を促してしまっているような気がした。

厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査(生活実態調査)の分析結果」によると、路上生活を送っている年齢層として最も多かったのが、70から74歳、次に65から69歳、そして60から64歳の順であり、全体の59.4%を占めていた。また、性別分布では、男性の割合が95%を占めていた。私が炊き出しを行った際も、高齢者の、特に男性が多く見受けられた。


また、この調査の結果で私が驚いたこととしては、調査対象者のうち約5割(50%)の人がなんらかの仕事をしているという事実だ。これは、ここ20年ほど変わっておらず、むしろこの50%という数値は昔に比べて低い数値であるくらいだった。偏見の要素が強いかもしれないが、こんなにもなんらかの職についている上で路上生活をしている人がいるという事実に驚いた。それと同時に、なおさら、私たちが炊き出しを行った時の反応に疑問を抱いてしまった。職についているのなら、社会復帰意欲があるわけであり、それをサポートしている私たちに感謝の念が沸くような気がしたからだ。


日常生活にも潜む「モラルハザード」

その一方で、不自由ない生活を送っている私たちの中でも十分にモラルハザードが起きていると気付かされた。大学生になって、先輩が奢ってくれるという現状にとても驚いた。中高生の間も先輩は存在していたが、奢る風習は存在しておらず、また、私自身も奢るというのは社会人になってからだと思っていたので、学生同士が奢り合うという風潮に最初はすごく違和感を感じていた。大学生活を送る中で、ありがたいことに私の周りには奢ってくれる先輩が多数いらっしゃった。私は純粋にその先輩たちが好きなのでご飯に行きたいと思ったが、その度に奢ってくれてしまうので、申し訳なさや、誘いが負担になってないかの心配があった。

ただ、慣れというのは恐ろしいもので、私含む他の一年生も半年くらいすると、奢ってもらうことへの抵抗がだいぶ薄れていた。特に良くないと思ったのが、バンド練のスタジオ代を全て一人の方が払って下さり、後から割る予定だったところを、出してくれた方が全額負担するからいらないと言ってくださった時に、すんなり「ありがとうございます」を言うのも、「いいえ出しますよ」と言うのも躊躇ってしまった時である。みんなどうしていいか分からず、曖昧な反応をしてしまった結果、どっちつかずの行動をしてしまった。よくない行動だったと自覚しているうちはまだマシなのかもしれないが、これが続いて慣れてくると、確実にモラルハザードを引き起こすだろうと感じた。


こうした現状を踏まえて、私がこれからどうあるべきか、そして、炊き出しの今後がどうあるべきかを考えていきたい。

 

今回の経験と分析から、炊き出し者として私たちは、支援する人たちのことをもっと知る必要があるのではないかと思った。そもそもなぜ路上生活者が増えているのか、職についていても社会復帰できていない人が多く存在するのはなぜか、支援をする以上は、生半可な理解とサポートではいけないと思った。また、この活動を成り立たせて広げていくつもりなのであれば、現在活動を行っている人たちは、自分の行っている活動へのより深い理解をするべきだ。ただ、カレーを作って配布する活動だと思って、そこになんの意義も見出さないのであれば、活動を続けるべきではないと思う。こちらがどういうスタンスで出るかによって、路上生活者の反応も変動してくるだろう。日常会話を試みようとする程関係値があるのであれば、そこから社会問題解決に繋げていけるような情報収集を行うことだってできるかもしれないし、少し踏み込んだ質問をすることも不可能ではないはずである。全国区で行うのではなく、活動拠点に縛りを設けているのであれば、その特権を利用するべきだ。



 このように炊き出しの意義について考えている今も、私の中での炊き出しに対する意義は未だ見出せていない。最後に、私が再びこの活動に参加できるか、あるいは、そもそも参加するべきなのかについて考えて、今回の記事を終わりたいと思う。


最初の記事で述べた通り、私は隠れ内向型で、HSP傾向もある。そのため、非日常の新しい体験は非常に刺激が強く、考えすぎてしまう。今回のこの体験も、言語化にたどり着くまでにたくさんのことを考えた。こうした活動に意義を見出せない自分が変なのか、どうしたら意義を見出すことができるのか、次回も参加しようと誘ってくれる友達の誘いを断るほど参加するのが怖いと思ってしまっている要因はなんなのか、など。

このように色々なことを考えて様々な人に話を聞いてもらい、徐々に言語化していった中で、私の中にある考えがあることに気づいた。それは、何かに対して意欲的に行動をしようとしている人のサポートでなければ、そこに関与する社会的意義を見出せないということである。私はバイトで塾講師をしている。そこで、健気に頑張っている生徒には時間を延長してでも指導してあげたいと思えるが、いまいち勉強に身が入っていない生徒を見ると、こちらのモチベも下がってしまう。ただ、教育支援を行って生徒のやる気を出させることは、有能な人材の育成、および日本社会の活性化にもつながり得ると考えている。ここには社会的意義を見出せるため、どんな生徒であっても全力で教えることができる。


このことから言えることは、路上生活者の方々が、今後どのように生きていくつもりなのか、社会復帰に対する意欲がどれだけあるのか、そういった細かい事情を把握することが私には必要であるということである。ただこれは、プライベートなことに踏み込む形になるので、回数を重ねて信頼関係を築くことが必須となるだろう。



 現時点では、炊き出しに再び参加しようとは思えない。しかし、参加するにしてもしないにしても、自分の気質を優先するか、社会問題へのアクション意欲を優先するかの問題であるため、どちらが正解ということもないと考えている。


自分の性格的な問題への対応と社会問題への対処、この二つをどのように両立し、自分の理解と行動に落とし込むかを考えていくことが今後の課題となりそうだ。

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