解説 ライナーノーツ
最近ご飯を食べた後、仕事に戻りたい時と、寝たいけどまだ時間がある時があって、大抵後者なのだけど、先週はその時間で小説を読んでいた。
「千の扉」と言う柴崎友香さんの小説を読んでいた。
築四十年、巨大な都営住宅で暮し始めた千歳は、ある人探しを頼まれるが……。人々の記憶と戦後七十年間の土地の記憶が交錯する傑作長篇。
と言う内容なので、千歳の物語として進みながらも、節々でかなり頻繁に、団地の他の住人やかつて住んでいた人、住んではいないけどこの団地についての思い出がある人など、の物語が現れては消え、千歳の物語に戻ってゆく。なんとも不思議な揺れのある小説で、飽き性な私にとっては、ちょうどよく意識が散漫になってよかった。
さらに良かったのは、岸政彦さんの解説部分で、心の中で拍手した。
「断片的なものの社会学」と言う著書を読んでから、岸さんのことはとても信頼しているのだけれど、他者の創作物に関しても、このようにかけることにとっても尊敬する。(今手元にないので、また今度引用する、かも)
誰かの作品を、自分の言葉で語る、と言うことは、私の興味の一つである。「半麦ハットから」は、作品「を」と言うのではなく、「から」と言うニュアンスで必ずしも私の作品について書かなくても良いと言うことだったが、どの文章も、語り始めやどこかで私の作品に対する自分の解釈が含まれていた。
最近の悩みは、そう言ったことを自分がする場合、(先日のホワイトハウスの庭の感想文とか)自分の専門性ってなんやろう?ってわからないこと。
柴崎さんの本に対する岸さんの立場は、スラ〜っと読むとそこまで強くないが、岸さんが社会学者であるということがわかっていれば、さらに深く読み取ることができそうだ。
私は、建築家と呼ばれるが、建築家って色々いる。色々いすぎてほんとにいるのか?という感じ。私は特に構法や構造などを専門にしていたわけでもなく、強いていうなら、ものの観察を大学で、ナラティブを大学院で学んだというような気がしているくらいだ。
専門性というか、私ならではの視点みたいなものは、いつ判明するんだろう。あまり言い得たくない、と思いつつ、少し心許ない時がある。