キーワード、抽象

最近珍しく、変わったなあと思うことがある、と言っても昨日気づいたくらいなのだけど。
抽象的なもの、に対する考え方が変わってきている

というのも、先日とある打ち合わせの会話の中で、抽象的な空間を作るためには、バッファーが必要ということを聞き、確かに、具体的なものを隠すための場所、もしくは結果的にそういう役割をになった別の質の空間が隣に必要だな、と。
いわゆる建築においてそういう役割は、ディテールが担っているところがあると思うが、(神は細部に宿る、だとか)、そういうピラミッドのようなスケールの主従関係ではないフラットな視点で考えてみたい。

他にも最近なぜか模型写真にハマっている、
明後日から始まる知人のユニットの会場構成では、通常の配置計画はもちろんだが、話が進むうちに、検討で使う模型をメインビジュアルに扱うことになった。普通、模型写真は制作の過程や制作手法を伝えるためのダイヤグラム的扱いを受ける。しかし今回は、いつも意味の幅をあえて広げるような言葉と写真を使ったデザインがユニークなそのユニットの影響もあって、模型写真で架空の空間を作ることで、実際の展示経験を想像できるような、でも理解するには解像度が足りなくてできないという、理解させないための「イメージ」としての模型写真となった。

撮影自体も、私ではなく、ユニットの写真家によるものなので、より通常の撮り方ではなく、あくまでモノとして撮ってくれた。ある現実の空間の説明(現実>模型)ではなく、ただ模型そのものの存在感が表現されている。

また、現在参加している、猫目線の家という展示では、1:15の模型を使い考え、アイレベルの写真を撮りそこにシーンを重ねて描いている。それを制作する時、ピントを合わせるのに苦労した。いつも使っているコンデジだと、どうしてもぼんやりする。しかしiPhoneを使ってみると一気に全部に焦点が合いクリアに撮影できた。さて、どちらを選んだかというと、コンデジの方だった。iPhoneの方は、ピントが合いすぎて、模型材料の質感が明瞭になってしまった。それによって、独特のクラフト感が出てしまい、今回表現したかったイメージが急に嘘くさく見えるような気がしたのだ。
それに対しコンデジの方は、鈍くはあるが、そこにシーン(人のシルエットや脚注)を入れると、ちょうど良いメリハリがつき、想像力によって壁の質感や奥行きの感覚が補えそうなバランスとなった。

模型が持っている抽象性を意図的に利用し、想像力へのエネルギーとして捉えられないか、という興味が芽生えている、気がする。

いつからか、抽象的な作品には、権威を感じてしまって好きになれなくなっていた。でもここ最近、抽象的なものに興味が湧いている。(と言っても、嫌な抽象的なものごとはやはりある)

今日のはほんとにメモ書き、抽象的なものに対する初めて興味を感じた初動として書き留めておく。