長田雛子「ねむけ前」@Kanzan gallery
最近、フリーで活動している作家(建築家、写真家、アーティスト、等々)と知り合う機会が増えた。というのも私が、フリーでいるからなんだけど。
なんとなくこのふと知り合うことが、仕事と同じくらい大切なことなんではないかと思うことがある。何かを志してやろうと決めた人は、いつも自分の気持ちを言葉にしている。きちんとステートメントを持っている。
もしかしたら、それは自分に溺れているとか言われるのかもしれないけれど、そんな他者からの意見よりも、信頼のできる言葉が並んでいる。
自分が何に対して違和感を抱いているのか。はっきりとしていて心強い。
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今日は、友人と一緒にご飯がてら「ねむけ前」長田雛子@Kanzan galleryに訪れた。
長田さんを知ったのは、去年の映像科の展示でのステートメント。作品の素朴さ(のように見えて強い)に対して、ちょうどよく炊き上がったお米に残る芯のような、ぎゅっとした意思を感じた。それから修了制作展の作品も見て、なんとなく惹かれている存在だった。
今回は「ねむけ前」というタイトルで、ステートメントはそれに沿って書かれていた。その一部を抜粋したい。
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眠る直前、思考は誤作動を起こす。これまでの記憶の様々が自分の中の、自分ではない何かに、
よくわからないままに編集され、謎のヴィジョンを次々に見せてくる。そのようなものを横目に、
何食わぬ顔で生活を続けている。しかし謎のヴィジョンは時として現実を侵食し、
生活する私の目の端をサッとよぎる。それが確かに存在したことを証明したくて、
風景が別の光景を見せてくれる瞬間を探している。
今打ち込んでいて気づいてけれど、この段落は、全て「、」で改行されている。その前の段落は全て「。」で改行されていた。ここに何か、長田さんの心の声を感じたのかもしれない。
「サッとよぎる」という言葉通り、会場にはUFOと名付けられた作品が散らばっていた。
長田さんの作品は、物自体の持つ素朴さとタイトルの持つユーモアが相まって、独特の確かさを放っている。その良さは、まだ私に言葉にすることはできないし、説明しようとしても
「ぱっと見、合板にピンクのぼやっとした何かが印刷されて貼られているんだけど、タイトルが『ショートケーキからカスタードクリーム』ってなっててさ、可笑しいんだよ」みたいな、見たそのまんまの話しかできない。
言ってしまうとなくなってしまう、その可笑しさは一体なんなんだ?と真面目に再現をしていたら、新しい物体(作品名を借りると、「近所のUFO」)が生まれていた。
展示を見た後食事をしていて、友人と「、で?」となってしまうかしまわないかが問題、みたいなことを話していて、
やっぱり新しい表現になることが重要だよね。ということになった。
振り返っているだけでも、まとめているだけでもなく、で、の後に続く自分の新しい何かを作ることをやっぱり信じたいなあ。
私がささやかに試みている多視点アクソメ図も、思わず名アイデアをもらったので今後のモチベーションになった!まずは、少し大きな場所を手に入れないと〜
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最近言葉について考えている。
なんとか、言葉も紙や粘土みたいに扱えないのかと思っている。
言葉は、「辞書」に載っていて、揺るがない意味がある。それゆえ「言葉にひっぱられる」現象が起こる。
タイトル、というものは絶対に言葉でできている。
建築の分野では、それが絶対的なフレーミングになることが多い。そのことが、私たちに作ることを不安にさせていると、たまによく思う。
最近、小説や映画、展示のタイトルにぐっと心を掴まれることがある。それらはどれもタイトルが、いわゆる作品自体と同等に、内容を作る一端を担っている。ムード作りに近いのかもしれない。
ぎゅっと全部をまとめ上げるのとは違う、一帯に漂う空気みたいなものとして、タイトルを考えたい。
建築に、フレーミングとなる言葉が必要なことはよくわかるけれど、それは「概要」として独立させ、タイトルと肩を組むのは違うのかもしれない。そもそもタイトルの意味合いが違うのかもしれないけれど、その判断を心がけようと思う。
そろそろ、自分のステートメント(仮)を一旦まとめるタイムングなのかもな〜
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展示は明日(11/11)まで
Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」vol.2
長田雛子「ねむけ前」
2018年 10月20日(土)- 11月11日(日)
12:00-19:30/日曜17:00まで/月曜定休/入場無料
〒101-0031 東京都千代田区東神田1-3-4 KTビル2
http://www.kanzan-g.jp/hinako_osada.html