うららかとルポルタージュ

こないだの土曜日、北千住BUOYにて上演されたDr.Holiday Laboratoryという劇団の旗揚げ公演「うららかとルポルタージュ」を観に行った。きっかけは、色々な方面からで(実際に会場にたどり着いてからも、色々な状況での知人が集まっていて驚いた)久しぶりの演劇鑑賞に緊張しながら訪れた。
観ている最中から、聞こえる言葉と目に見えている事物(俳優や舞台上の色々)が自分の頭の中で抱えられる関係性の数のキャパを超えてしまって、全部が等価な情報として目の前に現れるものだから、チカチカしてしまった。(ストロボが明滅するシーンで、冗談みたいに、あ〜もうだめ〜うわわ〜〜となった)

当日配布されたリーフレットに書かれたあらすじ(シノプシス)は、具体的なのに、目の前に現れた俳優を始め、目にうつる物事はとても断片的であり相対関係がはっきりしないことで抽象的に現れていた。そのギャップが戯曲に隠されているのか、演出なのか、どこにあるのか考えたいので、のちに発売される本を購入したいと思う(上演後買おうと思ったけど、トークを聞かずに出てしまったので買えなかった、、、涙)

帰り道も、ずっとモヤモヤしてしまっていたら、舞台美術を担当された福留さんに送った挨拶の返事が届いて、戯曲自体が詩のようなつくりだったということが書いてあり、少し自分なりの解釈をしてみることにした。
別に解釈なんてしなくたっていいのだけど、分かるだろうと思っていた表現が分からなかった悔しさと、もしかするとまだこれといった分かり方はなく、自分で発見しても良いのかもしれないという予感がある。
解釈というと、偉そうだけど、私にとってそれは「楽しみ方」であって、作品を語る物ではないと思っている節がある。だから解釈はあればあるだけ、いいのでは、と思っていたりもする。


まず、画面を感じたのは間違いないな、と思う。それは、撮影者?がこちらに語りかけてくるシーン、普通ならば撮影者は生身の人間として、こちらに語りかけ、きちんと説明し、こちらの反応を見て、というキャッチボールをする(演技)だろう。そんなことを予想して半ば油断していて彼の言葉を聞いていたら、ふとした瞬間彼はまた向こう側(舞台上の世界)へ行ってしまった。あ、向こう側の人だったんだ、私が偶然居合わせただけなんだ、と渋谷スクランブル交差点のビジョンから「みなさん!」と呼びかけられている日常を思い出した。

そのようなこちらとの関係性とは別に、画面のように感じた要素はもう一つあり、それは常に舞台上に均衡が保たれていたこと。
会場は、矩形の空間に対して斜めに振られた直線により区分されていて(床に白線が引いてある)、観客からは、各エリアが奥行きを持ち重なるように見えがくれする。中央には既存の柱があり、それの向こう側は見えないが、別の壁面に影を投影したり、柱に隠れたまま俳優が体の一部を見せるなど、ただの無い部分では無いことがわかる。
なんとなくアイソメ図を見ているような気分だった。常にどこかのゾーンに偏ることなく5人の俳優が配置され、言葉も多発同時的に発せられる。常に意識が画面(舞台)の端から端へ、奥から手前へ飛び続け、でも固定化された身体は常に俯瞰している。これはなんだろうと、ずっと考えていて、単なるコンポジションというよりは、昔友達の家でしていたスマブラを思い出すような。

私はスマブラに参戦するのが苦手だった。なぜならすぐに自分がどれか分からなくなってしまう。自分でキャラを指定したはずなのにすぐに見失うし、蹴ったり避けたりしている挙動が単なるジタバタにしか見えなくて、いつも誰もいないエリアに逃げまくっていた覚えしかない。。
なので、参戦は避けてだいたい観戦しながらワーワーいう、みたいなことばかりしていた。
あと、去年コロナで退屈すぎた時に、「どうぶつタワーバトル」というのにはまっていた。超簡単にいうとシーソーみたいなゲームで、上から降ってくる色々な動物=形をうまく配置して、シーソーが崩れないようにより積んでゆくゲームだ。全体のバランスを見ながら、キリンの首の長さをどう活かすか、小さなフォルムのペンギンが降ってきてらラッキー!みたいな、細かいディテールを組み合わせる作業。動物は本当なら重さが違うはずだけど、そこでは画面上に移った面積が重さになる。

そう思うと、もっと演劇中はストーリーを確かめようとせず、全体の世界を眺めながら、各ディテールを味わってもよかったな、と。ぼうっとテレビを見るような、映画ではなく、バラエティなのか、ワイドショーなのか、そういうポテチをつまみながら見てしまうようなもののように。
久しぶりの演劇でちょっと緊張してしまった。しまった。。


目にうつる物事が断片的であることで、私には全体像が掴みきれなかったのが正直なところだが、世界観みたいなものは経験していたのは確かだと思う。この感覚は、なんだろう、全体像は分からないけど、世界観はある。
ディズニーランドのアトラクションの待ちゾーンかもしれない。

アトラクションの行列に並んでいる間、そのアトラクションにまつわるキャラクターや、原作の映画には描かれていないようなシーンのセットの中を歩かされる。それを歩きながら楽しむのもディズニーランドの味わい方のひとつであるだろう。
私自身、昔はとっても冷めた子供だったので、アトラクション以外興味ない、みたいな感じだったが、最近は、そこにおかれている設や壁のディテール、何気なく描かれた絵を書いた裏方の人が馳せた思いなどを想像する時間を楽しんでいる。進むたびに現れるセットは、物語的なつながりがあるときもあれば、登場人物紹介のように自律していることもある。
その空間を歩いていると、不意に喋り出すキャラクターがいることがある、びっくりするし、時と場合によっては1度も聞き取れなかったり、何度も聞く羽目になることがある。そのシーンと鑑賞者のコミュニケーションはなく、ただ空間上の配置関係のみで成り立っている(むしろ鑑賞者もいらない)。

この行列を抜け、アトラクションを楽しみ建物から出たら、ほぼほぼ各セットの印象は薄くなっていて、断片的な色や形が頭に残っている。色々なセットの記憶がペタペタと積み重なって、頭の中で姿を為している。
全体像はないけど、世界観がある。この違いには、私も興味がある。


今回の「うららかとルポルタージュ」も私の中では、このような感じられ方をしているのかもしれない。それならそれでいいけれど、出てくる言葉の端々が、とても具体的でなんらかの作者(脚本家、演出家誰かはわからなきけど)の意志を垣間見えたことで、それをうまく聞き取れなかったことを少し悔やんだ。だからまずは、目に見えていて、自分が感じ取れた部分をもとに楽しんでみている。
見終わって、もやもやしているということ自体、何もなかったわけではないし、でも内容を理解できているわけでもない。
こうやって何か別の経験や表現の構造になぞらえて、形式的に理解することは目的ではなくプロセスだと思うので、こうやってひとまず考えたことは、Dr.Holiday Laboratoryの上演を見たり、プロジェクトブックを見る時の土台にしたい。