190719,20

雨と曇り

現場、仕上げが黙々と貼られている。大きさどころか、端部まで分かる。
床のモルタル仕上げが順番に流し込まれている。

木工事がひと段落した部分から、床を仕上げる。
来週は、また別の部分にモルタルを流す。

分担というか、連携プレーというか、これこそ建設!って感じがして一人で興奮していた。
工期が遅れている、らしい。
当初よりすでに2週間遅れのペースだが、もうちょっと遅れてしまう可能性があるらしいが、店のオープンも迫っているので、どうやって吸収しようか監理の方が考えていた。

私のせい(前半に積み残しがあった)もあるし、そもそもこの複雑な工程の見通しをつけるのも難しい。
だから、建築家は期間を多めに言うのか。と思った。設計料の比重も大きい。

現場で新たな問題点が出てしまい、パニックしてしまいそうだった。西澤さんにヘルプを求めた。
家に帰って母(施主)に共有する。思ったようにはいかないし、思ったようにすることが一番ではない、と言うことはコンセプトでもあり、真理でもあるので行ったり来たり悩んでいる。
結論は出たけれど、まだ悩んでいる。

設計手法によりできてしまった、施主を戸惑わせてしまう要素を、いかに「間違い」ではなく「いいかも」にシフトさせるかが何より難しい。

母から、監理の人が
「施工業者に、詳細(扉や鍵)のことを相談するんですけど、普通じゃないよ、普通はそんなことしないよ、と言われるから、『これは、普通ではないのです』と注意してから相談している」
と言っていたと聞いた。

涙ちょちょぎれそうになったけれど、
これが果たして「良い」ことなのかがわからない。

もうちょっと私は綿密に設計して、先にメーカーと話しておけば、とか
そもそも普通から考えることの方が今っぽいのではないか、とか
普通でよかった人たちを、無駄に原点回帰させるようなことをして、私は一体何様なのか?とも思う。

今までは、計画でしかなく、作る=人を巻き込む ことはなかった。
だから「新しい」「普通でないこと」を当たり前にできてきた。

今でもそれは必要だと思うけれど、本当に願うならそのためにはもっと表現力が必要だ!
言葉や態度、スケッチ、CGなどなど、、

でもそれによって「役に立つでしょ?」「安いでしょ?」「合理的でしょ?」なんて説明するのは白々しくってできない。
心地が良さそうなイメージを想像させることが、最善だと思う。
想像を掻き立てるというと派手だけど、そのように施主に主体性を持たせること。

(今は、そうやって面倒臭いことを業者に頼んでくれる監理の方や大工さんがいるから、乗り越えられているんだなあ、と少し喜びを噛み締めてかんばる!)

まだまだ、終わらない。終わるにかけて、慎重になっているのか困っているのかスピードが落ちている気もする。
私がもっと決断力を持たないといけない。そのために手を、手を、、!