新宿ホワイトハウスの庭

最近続けて新しくできた建築を見せてもらっていて、このnoteをはじめた頃よりかは随分と頻繁に内覧会にも呼ばれるようになって(ありがとうございます。。)、見させてもらってばっかりだなあ、もやもや、、とばっかりだったので、久しぶりに書いてみようかな、と思った。

新宿ホワイトハウスの庭 / GROUP
https://architecturephoto.net/124920/

真昼に、新大久保でGROUP(https://www.instagram.com/groupatelier/)の大村さんと待ち合わせて、歩いて数分の奥まった道にある会員制ギャラリーWHITEHOUSEに連れて来てもらった。
ここは新宿ホワイトハウスという名で、建築家・磯崎新による初めての建築物でこれまで色々な所有者によって増改築が繰り返されて来たらしい。そこが新たに、Chim↑Pomの卯城竜太、アーティストの涌井智仁、ナオ ナカムラの中村奈央によって「WHITEHOUSE」としてオープンするにあたって、GROUPが改修を担当することになったとのこと。

私は、先ほど添付したネットの情報でしか見ておらず、ちょっと妖怪みたいな雰囲気だなあ、と思っていた。多分、そこまで詳しくないながらに、運営しているアーティストの方のイメージや会員制であることから、そのように思っていて、だからそこに「庭」っていうのは、どういうことなんだろうかと興味があった。
いわゆる建築界でいう「庭」とは、外部と内部の中間領域であり、外部(この場合は他者でも良い)と内部の関係をできるだけ友好的に開いて行こうとするもの、として使われる。でも写真のイメージや、GROUPらが最近刊行した雑誌「ノーツ」の特集「庭」では、特にそういう側面で庭を語ろうとしていないし、ネットで発表している写真からは、いわゆる庭的な開いている雰囲気は感じられなかった。

だけど、ネットで掲載されている写真は、室内は明るく光っているし、外構の庇はそれを反射しているし、ネオンがたらんとかかっていて、むしろ自ら主張する印象があり、ただしほとんどが夜の写真であることなんかが、「妖怪」をイメージさせた。お化けと言うよりは、光っている(提灯のような火によってではなく、発光のような)。

さて、伺ったのはお昼だったので、とっても暑くて、電車を降りて思い出したけど新大久保は若者の街だったので、なんだかびっくりしながら向かった。

蔦に覆われて開口部しかほぼ見えていない建物に対して、かろうじて、ヒュンヒュンとシルバーの構造物が光っているのが見える。
受付口の半円の庇は、夜と同じ反射といえど、昼間はすぐ隣の蔦の葉っぱのムラや地面のグレーを反射していて溶け込んでいるようだった。それに対して庇やバルコニーを支える垂直材は、周囲の建物の輪郭(エッジ)のような、とても自然なスケールで立っている。

写真で見せていたような姿を消している、くらませている、にも近い。

やっぱり妖怪みたいだ〜〜
当時はそう思わなかったけれど、この文章を書きながら、勝手に合点がいっている。

印象的だったのは、大村さんが話してくれた、梯子のついたバルコニーについて、「これが庭って感じ(意訳)」と言っていたこと。
台形に歪んだ平面は、元から生えている木を避けているから、この木は構造ではないけど、水平方向のブレ留めになっていて、直行方向のブレ留めは積まれたブロック塀。バルコニーに登るための梯子と一本の細い柱が垂直方向を支えていて、梯子の基礎のコンクリートの塊は階段上になっていて、そこをベンチにして喫煙してもいいし、バルコニーに登っても良い。
その「時に周囲を頼りながら、時に自立的に、既存環境に介入している」(https://architecturephoto.net/124920/より引用)さまを「庭」と考えているようだ。

あれ、これやっぱり妖怪っぽいな。。
大学院の同期で、留学をしていたこともあり私より一年後に修了した、国清のことを思い出した。
彼は、修士制作で「妖怪建築」と題して、存在しないもののための建築を設計していて、下記のURLに、それに関するインタビューがこちら。
https://tobira-project.info/blog/2018_kunikiyo.html

その中で彼が話している中に、
「…ふたつの世界が同じ大きさで重なり合うこと、見立てが異なる世界が同時にあることを感じました。妖怪も現実にある世界で、どっちから見るかによって人間と妖怪になると思います。…」
と言う箇所がある。

大村さんと話している中で(以下解釈も含みます)、人によっては、敷地境界線上にある塀を壊して一部をカウンターにすることや、外で過ごしやすいように庇やバルコニーを作ることに対して「開きすぎ」とイメージする、ようだと聞き、なるほど、と思った。
でも同時に、その日私が訪れ、展示中のアーティストとそこで会話したかぎりどちらかと言うと、中の環境が漏れ出しているような状況で、開いて外部を受け入れる姿勢とは少し違うなと感じた。(これまた「溢れ出し」と言う厄介な建築用語?があるから難しいのですが、)

つまり、ここではいわゆる「開く」 OR「閉じる」の二元論は通用しなくて、中のWHITEHOUSEの世界と外の世界が併存している部分であるだけ、と言う感じ。
こう考えていると互いに見えていないものとして隣り合っていることを肯定し、より強めるような構造物に思えてきた。
ならそもそも断絶すればいいじゃないか、と言うけれど、そうしたら「見えていないもの」が逆に「見えない」ものとして断言される。

かまいたちのM1ネタ「自慢」を思い出す。
誰もが見たことあるであろう作品を「まだ」見ていないことを自慢する秀逸な漫才だが、見たことない=見るかもしれない可能性にスリルがある。

建築は、そんなスリルという言葉で片付けられないと思うけど、互いに見えていない状況を作ることで、人間の持ってる能動性を信じている。

大村さんは、過去にGROUPのメンバーでもある斎藤さんと「倉賀野駅前の外構」という駅前に建つ住宅の外構(庭)の設計を行っていた。そことの連続性や違いなども聞いてみたいな、と思いつつ、その後昼ごはんを食べたり展示を見に行ったりした間には、すっかり忘れていた、、

彼らの言う「庭」とは!??と言う気持ちで行ったのに、なんでか「妖怪」のことを思い出してしまっていた、、
「庭」の持っている定義の広さにおじけちゃったのかもしれない。。

このギャラリーWHITEHOUSE、現在の展示は会員でなくても入れるとのこと。建築や都市とも関係がありそうな。。ぜひ行ってみて欲しい(私も行く!)

https://7768697465686f757365.com/portfolio/wh010yutaakiyama/

久しぶりの建築感想文。文章書いていると、最初に思っていたことと全然違った方向に行くから楽しい。読んでいる方は、混乱するだろうけど、それでいいと思う。誰かが書いたある建築についての感想文は、それを絶対的に表す解釈ではないし、それを読んでその建築をわかった風にするのも良くない。設計者が書いた文章さえ、全てじゃない、そんな気がしている。
建築に限らず、見れるものは見といたほうがいいのだ。。なかなか難しいけど。。最近は色々と。。

続いて書こうと思っていたの「河童の家 / アーキペラゴ」は、ちょっと次にします。
妖怪シリーズになるか、、、、??笑