190802

快晴

今日はテラゾタイルの柄の配列を施主と一緒に考えるために現場へ向かった。

塗装屋さんが外部の庇を、電気屋さんがコンセント穴を、
大工さんが浴室の下地を、管理者さんがタイルの準備をしてくれていた。

昨日、この建築を誰かに説明するとしたら、という設定で文章を書き始めていた。
そうしたら、どうして淡路の街について考えているのかを思い出すことになり、書いているうちに新たなきっかけが生まれた。

淡路島をリサーチするにしたがってそれが持つ多面性に迷い込んでしまった私は、淡路島の行方に不安を抱いていた。でも、その場所を選ぶ両親の私的な気持ちも理解していた。
一見矛盾なようだけれど、その矛盾は建築を建てたいと思った場合、必ず訪れる状況だろうと思うし、今まで大学で学んできたこともそうだったと認識している。

その広域な社会的な問題と、個人的な問題を結ぶのは、どうしてもそこにある「現在する環境」だと私は感じている。

それを多角的に多層的に観察することで、情報が積み重なって、私個人の嗜好とは別の世界が、傍に着実に用意されていく実感があった。
その実感は、建築家のなかにある「私」と「観察者」を切り替えることを可能にしていたような気がする。

以前まで私は「設計者」と「観察者」と読んでいたが、今日は思い切って「設計者」を「私」と言い換えて見た。

設計とは、一見とても客観的で合理的な気がするが、ディテールに思想があるように、「正しい」だけではない。私は、設計をしている、と自覚することで少し正義感を無理に持ってしまう。もう少し、自由な名前が欲しいと思い、「演出」などの言葉を借りてみたりもした。でもそれは、なんとなく賢そう(深そう)な言い換えなだけな気がしたりしている。。。

少しおかしいけれど、「板坂 留五」という建築家の中に「私」と「観察者」が併存するということにした方が、体の使い方が少し楽になる予感がする。
どうだろう、、おかしいかな。。?

青木さんの書いた文章を読んで、乾さんの乾いた温かい建築への姿勢に感動してしまった。

形式的首尾一貫性の追求が、空間認識の捉えにくさ、こう言ってよければ、空間の読みの解放あるいは豊かさをもたらしている。
往々にして見られる「コンセプト」の可読化を目的とした一貫性の追求=単純化と逆の位相にある、形式的首尾一貫性である。

こうした感覚が生まれる理由は、まずはこの建築が「造形的」につくられていないことにある。
モニュメントとしても、シンボルとしても、つくられていない。特徴的な形態も、新しい空間の発明も、構造的アクロバットもない。これ見よがしのところがまったくない。ありきたりの手だけでつくられている。
全体を覆うグリッド体系だけがある。その意味で、この建築は純粋だ。しかしまた、その純粋性を表現しようとする兆しもない。グリッドだけがある。その抽象性を表すデザインというものがありえるのに、それも目指されていない。
目にされるのは凡庸な形と、標準的な素材ばかり。ふつうそう捉えられているところの「建築的」デザインの手すべてが、封印されている。

そこには、こういうものが「いい」、というあらかじめの価値基準がない。もちろんコンセプトもない。実現しようとしているイメージもない。あるのは、とりあえず目の前にある事物、とりあえず従わざるをえない規矩、つまり「現実」だけ。そこからはじまって、しかしその現実をなぞるのではなく、次段階の現実をつくろうとすること。ここにある「建築」とは、結末が約束されていない、そのような無謀のことだ。

モノの民主性、同等性、
にとても共感するのだけれど、
同時にとてもむず痒い。
それは最近徐々に感じて来ていて、
一気に広げてしまうと、アメリカとかイギリスとかの選挙にみられるような、民主主義からリバウンドする世界を、建築にも予感する。

https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19007

この中で、民主主義のつまらなさ
という話が出ているが、それと似たような感覚。

私がつまらないと感じているというよりは、
つまらなくならない方法、もしくは
つまらないのポジティブな表現はなんだろう?
と思ったりしている。

民主主義について勉強したいかもしれない