生きられた庭

おもてなしに慣れすぎた私たちは、公共施設(この場合は公立〇〇館・園を指す)を先入観なしには味わえなくなっている。

その先入観とは、「一方的に何かを教えられる場所」であるということ。脳裏には、小学生の時から度々経験する、社会科見学のようなものが浮かぶ。
そんな先入観があるから、公共施設にいくときはつい身構えてしまう。

大人になるにつれて、その体験を素直に受けることに対するしらじらしい気持ちが生まれてきて、なんとなく不自由で窮屈な心地がしてくる。私は、そんな中高生だったので、公共施設に行くことを素直に楽しめなかった。

今はそれを少し悔いているが、やっぱりあの時に行くことを選ぶことはできなかったと思う。

今日参加した「生きられた庭」@京都府立植物園は、これを乗り越えられる「楽しさ」に溢れていた。

キュレーターの高木遊さんが、麦わら帽子をかぶってピンマイクを片手にガイドツアーをしてくれる。

私の参加した回は、15人ほどいて、初めは昔懐かし社会科見学のようで少しこっぱずかしかった。

でも、高木さんは、台本なのかアドリブなのかわからないけれど、自然な口語体で話していて、聞く緊張を感じなかった。
植物園の成り立ちから落ち葉の匂いとか、地球の重力の話まで、繋がりあるない関係なくその場にあるものを話していく。

友達に、その人のよく知る街で散歩しているような感覚で、よーく聞いたり、ぼーっと聞いたりしながら50分を過ごした。

最中もだけど、終わった後、面白かった!よりも楽しかったな〜〜♩の気持ちが先に来た。

興味深い展示だったというよりも、
この植物園という地盤に、与えられたマップ(植物園が作ったもの)ではない、自分(高木さんの誘導により)のネットワークを張れたことがとても嬉しかった。

これは、簡単にいうと「学び」なのかもしれない。でも教育ではないと思う。少なくとも私の知っている教育ではない。

や、こういうのが教育になればいいと思う。

おもてなしは、だれもその存在を疑わないし、疑うことは日本人として美しくない、といわれてしまいそうでこわい。
教育もそんな感じがする。

疑うことは、怖いけれど、遊びで乗り越えることは楽しいと思う。

言葉のもつイメージが変わるまでには時間がかかると思うけれど、体験すれば一瞬だ。


高木さんは一体何役だったのか。
アーティストたちは一体何役だったのか。
これは、展示なのか、ツアーなのか、演劇なのか。
言葉にするのは、まだできない。

一見すると、実際の植物園での「ガイドツアー」というリアルな出来事なのだけど、
「生きられた庭」というまとまりとしてはアーティストの作品の力を借りて植物園を自分の中に描くファンタジーな経験だった。

RPGゲームをするように植物園を読み替えているのかもしれないし、むしろ私たち(よりも下)は、大人が言うほどバーチャルとリアル(現実空間)の違い(というか格差?)を感じていない。
大人に格差を刷り込まれるから、道徳的に正しい/ないで判断してしまう。

コミュニケーションだ、人のぬくもりだ、なんてことを否定するつもりはないし、信じている方だけど、だからといって、バーチャル全てを否定するのは勿体ないなあ、と思ったりしている。


ゴールデンウィーク中、同居人にオススメされた「違国日記」という漫画を読んだ。主人公の小説家の人が言っていた、「ファンタジーの必要のない人もいるんですね」(うろ覚えです)という言葉がずっと引っかかっている。

いい言葉だな、と思う。

小学生まではめちゃくちゃ小説(クレヨン王国、ハリーポッター、などなど)を読んでいたのに、中学生になってからぷっつり読めなくなったことを最近よく思い出す。なぜだったんだろう、と考えている。

今はまた、昔読んでいたものとは全く別の類だけれど、小説を読んでいる。映画も観れるようになった。
それもまたなんでだろうってめちゃくちゃ思う。

ストレスとか、なのかな、?よくわかんない。


なんか冒頭に書いたことだけど、少し戻りにくくなってしまったけど
なんとなく戻ろうとしてみよう。

つまり、公共施設が悪いのではなくて、そこを使う私たちの先入観が良くないのだということ。
でもそれは反省しても仕方なくて、別の方法を考えたい。

さまざまな施設の、パラレルマッププロジェクトとかやりたいんだけど、誰か一緒にやってくれないかな。

パブリック=みんなに開かれている、ということを単なる物理的スペースとしてではなく、経験とスペースとして、建築家なりに作っていきたい。