191106

文章を書いている、路頭に迷っている
墓穴を掘って掘って、ブラジルで生まれたいと言っていたように、
もうすぐ生まれそうな予感がしている。
でも、まだ生まれてないので、
生まれる先が北極で凍死してしまうかもしれないのだけど。

建築の言葉で探していても全くラチがあかないので、
好きなシンガーソングライターで、
最近ユニットとしてのアルバムを発表した折坂悠太さんのインタビューを読んだ。

引用をいくつか。

フォークやブルースって、今、目に見えている世界をそのまま歌いますよね。たとえば、誰にいくら貸して、誰が死んで、あいつは結婚してしまったという。世界の成り立ちをそのまま歌っているわけで、「こういう世界になってほしい」という願望に近い視点はそこには入っていない。そうやって作為なく世界の姿を描けば描くほど、結果的にその歌がレベルミュージックとしての力を持つこともあると思うんですね。
世界のことをドライに描くことで、一番エモーショナルな音楽ができるんじゃないか、あのアルバムではそういうことを考えていました。
起源を遡れば、「歌」って鑑賞のために生まれたんじゃなくて、生活や信仰のなかで生まれたわけですよね。生きること、生活することに一番近い表現が歌だと思っていて。時代によって音色やコードは違うけど、本質はそこにあって、それが僕らの考える「フォークミュージック」なんです。

フォーク・アーキテクチャーと言い換えると、
「バナキュラー建築」のような「気候や立地、そこに住む人々の活動といった風土に応じて造られる住居や施設」のイメージが先行してしまい、愛着や郷愁が漂い始めるので直接使うことは避けたい。

ただ、建物というものは「衣食住」というように、本来食べるように身を守る空間が必要で生まれた構築物ということは当然だろう。
その後に、そこに別の意味づけをして思想を盛り込み、造形で表現することが始まり、「建築」「建築家」が生まれたのだろう。

せっかく大きな買い物なのだから、街に対して大きく構えるのだから、色々な理由を掲げながら、建築は建物以上の役割を担おうと育ってきた。

それが建築だとすると、私はもう一度「建物」を作りたい人間なのかもしれない。
しかしいまやただの「建物」などないのではないか。

ハウスメーカーの建てる商品としての住宅でさえも、ZEHを謳ったり、何かとその建築の存在意義を掲げる。

そんな時、生活の中、生活のある風景の中に単なる「建物」と同じような素朴さを発見する。それらは、生活から発生した問題点に答えるためだけにそこにある。

海の潮風でペンキが剥がれてしまった、ではホームセンターに行ってペンキを買って塗ろうじゃないか。そう思って行動した誰かのように、他の誰かもホームセンターへ行きペンキを買っている。
ホームセンターには、無彩色とうす緑色のペンキがある。どれほどの確率かはわからないけれど、うす緑色を手にとって家の壁に塗る幾人かの住人がいる。

私がどんなに深読みをしようと、その風景の存在意義は揺るがない。ただ、私と街の間の「窓」が開くだけである。

「建築」には「窓」がありすぎる。開けてくれよと言わんばかりに主張し、開けるとどこかの窓から頭を出してその建築に戻ってくる。延々にその建築から逃れることは出来ない。それを、建築の強度ということもできるが、私は窮屈だと言ってしまう。


「レベル・ミュージック」という言葉を初めて聞いた。
<rabel music>と書き、反抗の音楽と訳される程度で、あまり具体的な情報が出てこない。ボブ・マーリーが同名の曲を出していたり、レゲエなどで使われることが多いようだ。

この言葉が、のろしレコードに当てられること自体不意打ちなのだけれど、なんとなくわかる気がする。

私の判断について、よく「何か」になろうとしているが、その「何か」はまだ決まっていない、ということを言われる。
そしてそれは、なりたくないものがたくさんある。ということでもある。

Rebel architecture
ただ抗うことだけが魅力なのではよくないので、やはり評価軸が不明。
そこで美しさなんて言葉はきっとよっぽど使えない。