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閏のないとし

諸々あって3月になっちゃったな、あちゃ


学部3年からやってる予備校講師バイトも、もう終わりに近づいているなか、初めて気付いた景色がありました。

清掃のおばさんの干したタオル

掃除道具を隠しつつも、タオルを干す。
蛇口のハンドルがちょうどそこにあったから、フックにして、と。

それが二つも並んでいて、同時に石膏像を思い出しました。

肩から垂れるドレープのように、アシンメトリーな感じといい、少し薄い絶妙なバランスで出来た襞といい、大げさですが、気品を感じます。

しかも二つ並んでるってのが、予備校にある石膏像ぽくていいなあ、こりゃまた


ひさびさにドレープという言葉を口に出して見ると、「どれえぷ」がしっくり。でも、ドレープのイメージを頭に浮かべると「ドレープ」がしっくり。間の伸ばし棒が、あの引っ掛かりから重力に任され垂れたさわやかさを演出しています。


今日ちょうど今月号の美術手帖、その名も「言葉の力」を買いまして。中古で買おうと思ってたけど、やっぱり新品で買ってしまって。

まだ10%も読めてないのだけど、はじめの穂村弘と柴田聡子と保坂健二朗の鼎談?を読んで、めちゃくちゃふむふむ、となって電車の乗り換え中も読みながら歩いてしまったりした。

柴田聡子の音楽になんとなく苦手意識がある。
それは一昨年くらい、知り合いの男の子がよく聴いていて、それを横から聴いていた時から。

なんでかわからないけれど、可愛すぎるというか、あざといというか、多分そんなことができる彼女に嫉妬しているのだと思う。

興味がないわけではない。現に、ついApple Musicで探してしまったりするし。たまに口ずさんでしまうし。

素直に好きってなれない感じ、とても、子供っぽいと思うけど、なかなか嘘はつけないなあとも思います。

きっと好きなんだと思います。

今日鼎談を読んで、柴田聡子のことを信じられる気持ちに少し、なりました。

でも、基本的にライブのなかで歌詞や節回しを変えるのは、全部エモーションがもたらすもので、それはたいして良いことにならないという思いがあります。その場で起きてしまう感情は、半分くらいしか信じないようにしている。歌う側と聴く側の「気持ちをわかって」「わかる」というやりとりが、私にはしっくりこない。(中略)それを信じていたら、世の中とんでもないことになっちゃう気がするんです。

そうそうそれそれ!読んでる時に横に立ってる人にばれそうな勢いで首を縦に振ってしまった(気分)くらい、共感。

即興だとか、観客がいる前提の作品だとかにとても興味があって、私がつくる建築もそれに近いと思っています。そんな時、いつも立ちはだかるのは「エモさ」なのです。

共感には一番、「エモ」が効くみたいなんです。だからみんないつも、歴史だとか思い出だとかに返ってしまって、わかりやすいエモで埋め尽くされるのです。

でもみんな、きっと「エモさ」の怖さを知ってると思います。オレオレ詐欺みたいなの


そりゃあ、エモい気持ちになりたくて、体育祭のダンスの音楽とか、徹夜の時の製図室で流れていたウルフルズを聴いたりします。

エモいの、めっちゃ好きだから、もっと大切に扱いたいです。

エモでエモを起こすんじゃなくて、いつのまにか新しいエモ、起こしたいよなあ、なんて思います。


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踏み切りの音