takeo paper show 2018|チェルフィッチュの〈映像演劇〉

前に聞いた、中山さんと田中さんのトークを経て、takeo pepar showに訪れた。3日間の最終日ということで、沢山の人(デザイナーぽい人、学生ぽい人、はたまた子供や、竹尾の常連さんのような人まで)であふれていた。

私はいつもスパイラルに訪れる場合(主に2階のスパイラルマーケット)、一階のスロープか階段どちらかを通って上がり、帰りはその逆の道を通って下りる、ということに勝手にしている。なんでかどうしてもぐるっと回ってスパイラルを出る。

しかし今回は、階段側を出入り口とした3階での展示だったので、迷わず階段を上がった。

リズミカルな階段状の道の両脇に、紙束が積まれ、カラフルな紙の木っ端とビリビリという音が散らばっている様子に少しおののきながら、階段を上がった。

正直、どうしてみんながあんなにもイキイキと軽やかに紙を破いているのか理解し難かったし(最後に紙を破いて持って帰れることは知っていた)、今の自分は、紙がもらえるという欲、以外の純粋な気持ちでは破けないな、と思っていた。

8つの四角い照明が、ハの字に2列で吊るされた、真っ暗な部屋の中、"TAKEO"と名札をつけた人たちが、それぞれの製品(作品)の紹介を流暢にしている。何十人という人がその間を漂いながら、説明を聞いたり、覗き込んだり、写真を撮ったりしていた。私もそのうちの一人だった。

8つの新たな製品を見て、ひとしきり楽しんだ後、動画のブースに移る。紙管に座りながら、それぞれの製品の製作過程(安藤さんの動画がなかったのが残念だった。)を鑑賞する。どの映像も、工場のラインの様子や、作っている工場の人の表情、最後には製品を手に持ち笑む作業員の姿。どれも鮮明で整っていて、6本の映像のトーンも調整されていたように思う。

その後、また同じ階段を降りる。手前で、数枚の木っ端が入った透明の手提げ袋をもらう。

わ〜これだ〜〜 と、急に愉快になってすぐに私も紙と戯れる一人になった。

普段基本的に白い紙の中から選ぶことが多く、もう自分の中に固定されたラインナップがあったため、今回のセレクトがとても新鮮だった。

タダだから、という欲みたいな気持ちはあるかもしれないが、それは置いといて、無邪気に紙を引きちぎる大人がたくさんいたことがとても楽しかった。つい1時間ほど前まで理解し難かった側に、すでに私は入っていたようだった。

階段を下りきって、振り返ると、「はー!」と何かライブかジェットコースターから出た時のような息が出た。
帰り道に一緒に見ていた知人と、あの感覚はなんだろう?と、展示全体のことを振り返った。

「思い出そうと思っても、それに自分がいたような心地がしないよね」

映画を見た時のような、自分はそこにいるのではなくて、ある物語を見ていたような感覚でした。自分がそこにいなくても、起こる物事や時間がそこには流れていたように。

確かに、私の質問に丁寧に答えてくれる"TAKEO"の方がいたり、ものを触った私自身の感触はあるのですが、その場全体にとっては「私」は特に登場人物ではないと感じました(観客ではある)。

そのあるレベルで切り離されていることで感じる心地よさ、スムーズさ、を私は感じていたのだと思います。
そして、映画を見た時の気持ちとして、その前後の体験を捉えてみると、案外しっくりくるのです。

階段空間をお土産売り場と考え、エントランスをシアター前の顔ハメパネルがあったりするところ、映像展示をエンディングロール、と捉えると、かなり安直ですが、そのフィクションと自分の身体との繋がりが認識しやすくなります。

私の体は、展示空間を通して初めて、階段空間を存分に楽しめる身体になっていました。いつの間にだろう。

それぞれの製品のプレゼンテーションや現物がならぶ、8つのながーい暗いテーブル。
そこには物品が、光に照らされて、どれも綺麗に並べられていた。
どことなくwebshopの商品が並ぶスクリーンを見ているような、一つ一つが粒として独立している感覚を覚える。今ここに在る物ではなくて、「こういうもの」という事実のみというような(エレメントに近いかもしれないが、少し感覚が合わない)。

影がない。
接地していなかった。

よく予備校の学生に言う「影を描かないと、どこに在るかわからへん」
まさに、それだった。
つまり、これはどこにもない。のかもしれない。実際私たちはそこに在るもののほとんどを触ってはいけない。

その影をなくす設計を、中山さんはテーブルの設計と称して行なっていた。

どういうコンセプトでこの会場構成を考えられたかは、私は正解を知らないが、こないだのトークで出た「生態系」によって考えられたのだろうと思う。

手法の一貫性ではなくて、展示と観客の身体の繋がり方に対する姿勢への一貫性があり、それに対するテーブルの設計、動線の組み立て、サンプルの紙の配色が行われているように感じられる。
そのようにできた空間は、そのもの(作品自体)に対する自分の感受性を邪魔してこない感覚がある。ものと身体のやりとりは独立して執り行われており、その周縁を補うことで展示全体を構成する。

ふとこんなことを考えていると、先月熊本に見に行った「チェルフィッチュの〈映像演劇〉」のことを思い出しました。

チェルフィッチュの岡田さんのいう「上演」という言葉が私はとても好きで、前回の展示フライヤーには、

〈映像演劇〉とは、岡田が舞台映像デザイナーの山田晋平とともに取り組み始めた新しい形式の演劇であり、投影された映像が人の感覚に引き起こす作用によって展示空間を上演空間へと変容させる試みです。映像はフィクションであり、実在してはいませんが、同時に、役者によって演じられる人物たちは、映像として実在しているのだとも言えます。観る者の想像力と結びついてそれらにリアリティが付与されたとき、展示空間に〈映像演劇〉という上演が発生するのです。

という文章が書かれています。

余談ですが、私は岡田さんの言う「上演」と言う表現がとても好きで、自分にとってそれは建築と街、人との関係です。現象というよりも演出があり、理屈と偶然の間で起こるものです。

さて、美術館に限らず、何か展示をみると、その前後に何かしらの変化が自分の中で起きます。より正確にいうと、見たその瞬間、会場内でずっとその変化が起こり続けています。

そのことに対してより意識的に、制作されたものが映像演劇であると私は考えています。

そこに人がいることとストーリーあることが、映像インスタレーションとは違い、大きく作用したように思います。ストーリーがあるとつい、本当かどうか、について判断してしまいます。
演劇の場合、ストーリーのノン/フィクションと身体の対峙が強すぎて、見ていられないものと感情移入できるものとがはっきりと別れたりもします。それよりも展示空間は、自由で好きな距離から鑑賞できます。

この展示は規模的には小さかったものの、どれも10分〜30分程度のものが数点あったので3時間弱滞在していました。その間、想像は広がるばかりで、日常のことから政治的なことまでいろんなことを夢遊しました。
一番大きな作品の前は、前後奥行き5mくら何もなく、柱が一本だけあって、そこにもたれたり、床に座ったり、ぶらぶらしながら鑑賞しました。

その観客の挙動全てが、映像と繋がれてできた上演の一部であるとしたならば、一つ一つの作品が映像演劇というよりも、入ってから出るまでが映像演劇でした。

takeo paper show を見て、私が一本のフィクション作品を見たという感覚を得ました。
新しい8つの製品と観客の身体をどう繋ぐのか、という上演装置としての会場構成。そのフィクションのための超現実的な設計。


最近、建築家とは、いつも客観的で中立的な立場のとても特殊な職業であると、感じています。客観的であると言っても正しさ(速さ安さ安全さ)だけでなく、ユーモアの必要を信じて関われる職業です。

昔から通知表の「公平さ」に丸がつくような子供だったことを思い出したりしています。

中立的な立場と溢れるユーモアの使い方を、存分に学んだ展示でした。


書き終えてから、2018年6月号の新潮に寄せた岡田さんの文章を読んだ。それをメモとして残しておく。

演劇という言葉をひとつの表現形式を指し示すものであることに留めておくのをやめてしまったとしたら、おもしろいんじゃないだろうか。演劇を、表現形式としての「演劇」をつくる先に用いられる考え方の形式のことを指す言葉にしてしまう。考え方の形式としての演劇を用いて作られたものはそれが「演劇」であろうのなかろうと、演劇だ、ということにしてしまう

冒頭にこう記してあった。
去年の春、演劇のような建築を作りたいと思っていたことの希望が、少し明るくなった。嬉しい。