190831

現場ではないけれど考えていること

知っているつもりのものを、
わからなくするための制作かと思ったり。

この街らしさはなんですか?
〇〇です。

そうかもしれない、けれど、あそこのあれは?
こっちのこれは?
ここのこんな感じは?

らしさを言葉にしてしまうと、
そのくくりから外れたものは、この街のものではなくなってしまうのか。

そうではないけれど、そう思ってしまう傾向がある。

これが正しければ、それは間違っている。
そういう二択を常に迫られている。

世界がもしもそのような方向に進むのであれば、
ものはどんどん効率的に、多機能に、形はシンプルになる、、

何が楽しい?

初めて会う人に趣味はなんですか?
と聞かれた時の気まずさと似ている。

借り物の言葉で、自分を表してみるもののしっくりこない。

知っているけれど、
共有するために言葉にすると、
それは自分から離れていってしまう気がする。

言葉にすると分かりそうなものを、
分からないままにする、
むしろ分からないようにすることに、
形あるものだからこそできる
らしさ への心意気を示せると思う。

どうしてそれがそうなっているのか分からないけれど、
もしかしたらこうかも、とか
使ったら便利じゃん、とか
そういうことで自分の身に受け止められる

人はだいたいそういう、
慣れれば気にならないといういい加減さがある。
なのに美しさを形に見出す。
その矛盾がとても面白い。

分かる
ということと
受け入れる
ということを別にして考えられるように、

どのラインで意味と形を分割すべきか考えているかもしれない