190908

晴天 一粒万倍日

いつの間にか竣工(外構はまだ)し、引き渡しを終え、店がオープン初日を迎えた。(そこまで3日)

とてもめでたいことなのだけれど、設計者としてから生活者としての転換があまりにもグラーデショナルというかいきなりだったので、感動する暇もない。

と言っても、やっぱり心にくるものはあって、
引き渡し前日にいつも通り棟梁にバス停まで送ってもらう車の中、ついこれからの不安とか感謝とか伝えてしまった。

その次の日は、引っ越しで家具が入るのを見て、ダイヤグラム的に頭の中で組み上がっていた空間が、具体的な生活を受け入れていて驚いた。
そして人がスムーズに動いている様子を見て、自分の目が浮遊している感覚があった。
これが建築家というものなのか。

心ここに在らずという感覚。
いや、身体ここに在らず、かな。

なんとなく、その空間を把握しているようなその感覚は、優越感ではないけれど、そう簡単に考えると、建築家のできることを過大評価してしまう気がするので気をつけたい。


昼から、店(子供服店)が開き、続々とお客さんが来てくれた。
去年母の店が賃貸テナントに入る際に改装を手伝ったけれど、その時の感覚とは当たり前だけれど本当に違う。

敷地の取り方、扉の位置、壁の色、全て私が引いた線からできていて、
その延長線上に目の前の人たちは立っていて、
スムーズに洋服を見て、話して、海を見て、上を見て、屋根の形を見て、窓から外を見て、、、、いる。

簡単にいうことしかできないくらい、感動している。

そして意外とそれぞれの部材の由来や、どういう気持ちで調整しているのかを話すと聞いてくれることにも驚いた。


内覧会に先立って、建築関係ではないたくさんの人からの感想をもらったのは、元気が出てよかったかもしれない。
批評ではないことは重々承知だけれど、
近所に住んでいる人や、普段からの施主の友人らがそれぞれの振る舞いをしていた。

それはきっと素直な身体と形の関係。
なんとなく半麦ハットに連れていかれるように、

そのためには半麦ハットは何か方向性を持っていないといけないし、それが計画である。
今回の建築における計画とは、「人の街への眼差しをどう構えるか」ということにあった。
常にその身体には敷地を超えた街への意識(直接的な眼差しだけではなくて、頭の中であったり、時間軸を持っていたり)が内在していることを目指したい。

それが何を変えるのかな。


島に店ができる、それも生活用品というよりは嗜好品の。

そのことについて、印象的な出来事があったのでメモしておく。
外構の工事をしてくれている人が、今日は休みなのに工事の段階の様子を見に来てくれた。

建物の前で母に、
昔から洋服が好きで、古着からモードからいろんなスタイルを楽しんでいたらしく、
そのために働いていたようなもんやと話していたらしい。
でも今は仕事ばっかりで忙しくて、そんな服を着る時間がないらしい。

そんな話がポッと急に出たことに普通に嬉しくなってしまった。

必要最低限や、別になくても生きていける、みたいな価値観の時代に、
風穴がぴゅっとあいた時に、個人の素の欲が見える瞬間があって、それをキャッチしたい。

さーて、建築として半麦ハットは何に挑戦し、何を発見できたのだろう?
これからこれから

母の店もこれからこれから。
みんなが自分の知らない自分と出会う機会になれば。