1/6 夕霧忌「遊郭が生んだ最高の芸術品 」



【夕霧忌】
1/6 goodmorning

延宝6年1月6日、大坂・新町の名妓 #夕霧太夫 が亡くなった。#夕霧忌 は、俳句の季語にもなるほどで、夕霧太夫の人気ぶりがわかる。

三大遊郭のひとつ、大坂・新町で名をはせた夕霧太夫は、京・島原の吉野太夫、江戸・吉原の高尾太夫と並んで一世の名妓と評判を誇る。

京、大坂の遊女は、太夫を頂点に天神、鹿子位、端女郎とランクがあり、太夫は絶世の美女で #傾城 と呼ばれ、

「容姿だけでなく茶道、香合、立花(生け花)、書道、和歌、俳諧、音曲、絃楽、遊戯など万芸を会得し、『八代集(古今和歌集から新古今和歌集までの勅撰和歌集)』『源氏物語』『竹取物語』などに通暁して漢文も読めるのが望ましかった」

「京 島原の太夫には朝廷から「正五位」の官位が贈られ、島原は公家貴族、新町は大分限者、大店の主人が遊ぶ文化サロンだった」

ただ美しいだけでは生き抜けない世界の頂点にいる太夫は「#遊郭が生んだ最高の芸術品 」だった。

京 嵯峨生まれの夕霧は、島原に身売り奉公にだされたあと、大坂 新町に移る。

「京ですでに名の高かった夕霧が大坂へ下るというので、大坂中の評判となり、大坂の人は今日か明日かと淀川べりで船を待った。「京女郎の下る」という歌まで流行ったと伝わる」

新町に移って6年、27歳で夕霧は亡くなるが、亡くなってもなお、その名声は高まり、#近松門左衛門 や #井原西鶴 も題材にして、いまも歌舞伎や浄瑠璃で上演され続ける。

西鶴は、好色一代男の中で夕霧太夫をこう書く。

「ほっそりとして、姿形はしとやかで肉付きも程よく、まなざしもぬかりがない。声もよく肌は雪のように白く、床上手で稀代の色好みで客を恍惚とさせるところがあり、酒もいけるし、唄も上手で琴・三味線はいわずもがな、一座の捌きにそつがなく、文章は上品で長文の書き手、物をねだらず、人には惜しみもなく物をやり、情が深くて恋の駆引きの名人。『これは誰のことだ』と言うと、五人が一度に『日本広しといえども、夕霧をおいてほかにない』と口を揃えてほめたてた」

「命を捨てるほどに思い詰めた者には道理を言い聞かせて遠ざかり、のぼせ上がった客には義理を説いて見放し、体面を重んじる人には世間体をはばかるように意見し、女房のある男には悋気の気持を合点させる。魚屋や八百屋にも手を握らせ、愛想良く言葉をかける」

いつの時代も、男女の関わりは駆け引きだ。モテる人間にはモテるなりの理由がある。

のし上がるために男を手玉に取るではなく、決して自分で男が身を持ち崩さぬようにと駆け引きするプロフェッショナルであったのだろうとわかる。

そんな夕霧太夫だが、遊郭の女たちの暮らしは決して楽ではなく、中村仲蔵が歌舞伎の世界でも語っていたが、太夫も衣装から小者の給料まで自前で、一度踏み入れば、この世界で生き抜くしかないのも現実だ。

夕霧が客と遊んだ揚屋(料亭)「吉田屋」では、延宝8年(1680)の三回忌から夕霧忌が始まり、節目ごとに追善供養が行われ、昭和12年(1937)の二百六十回忌まで続いたとのこと。

では、朝の珈琲。

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