20240618 日記のようなもの

思えばここ数年は、正確な情報伝達を主目的としたまとまった散文ばかりを書いていて、エッセイのようなある種ふんわりとしたものを書いてこなかった。そろそろ何か書いてみても良いのではないか、そんな気まぐれから、続くかどうか分からない日記のようなもの、を書きはじめている。日記としたのは、定期的に書くエッセイのような散文の名前を、「日記」以外に私が知らないからで、毎日欠かさず書こうという気持ちの表れではない。むしろ、月に一回書ければ良い方で、正直に言えば、もう次回はないかもしれない。気まぐれで始まったものは気まぐれで終わるものである。

少し真面目なことを書いてみたが、この文章を書きはじめた実の理由は、つい先程見た夢のことなのである。私を含む十人程度が、学校の教室のようなところに集まって、おそらくは同人誌即売会らしきイベントをしていた。私はそこで、KさんとTさんの冊子を買った。Kさんの冊子には、いくつかの小説の批評が載っていて、これが素晴らしく良い文章だった。Tさんの冊子には、エッセイのようなものが載っていて、これも爽やかな読後感で良いものだった。夢から醒めて、私はあの文章がもう一度読みたいと思った。私はいま、あのとき得た読後感に類するものを、ここに捏造しようという、無謀な試みを始めたところである。

夢のなかで、帰り際に、私はKさんと話した。Kさんの文章がとても良かったことを私は言った。Kさんは、私には多くのファンがいるが、ファンでもないのに私の文章をほめてくれるのはあなたくらいだと話した。夢のなかの私は、その言葉の意味を分かった風ではあったが、夢から醒めてみるとその意味は判然としない。意味は判然としないのだが、なんだかとても重要なことのように思えるので、ここに備忘録代わりに書いておく。ちなみに、KさんとTさんは現実に存在する人物だが、私はKさんともTさんとも面識がないし、Kさんに至っては文章を読んだこともない。しかしKさんの文章は素晴らしかった。そういうことがある。

最近は、詩の歴史はどう書かれるべきか、ということをぼんやりと考えている。詩の歴史について書かれた適当な本を開くと、それぞれの時代について、代表的な詩人や詩集を取り上げて、成立した経緯や作品の特徴、後世への影響なんかを説明している。だが果たして、これで詩の歴史を説明したことになるのだろうか。そういう疑問が頭のなかにある。詩人や詩集について知れば、詩の歴史を分かったことになるのだろうか。そもそも、各時代の代表的な詩人や詩集は誰がどうやって決めるのだろうか。そして、しばしば無味乾燥に感じられるそれらの記述に退屈していたのは、なにより私ではなかったのか。

たぶん重要なのは、「詩の歴史を知りたい」と言ったとき、本当は何が知りたいのかということなんだと思う。現在に繋がる作品がいつ頃から書かれてきたのか? 詩の作風にはどのようなものがあって、これまでにどのように流行あるいは衰退してきたのか? 他の文芸と比べて詩が流行ったときや廃れたときはあるのか? ある特定の詩集はどのような社会状況や文芸思潮のもとで生み出されたのか? 「詩の歴史を知りたい」と言ったとき、おのおのの人が本当に知りたいことは違うし、その意味で万人が満足する詩の歴史は存在しない。せいぜいできることは、ある特定の問いを立て、その問いのもとで詩の歴史を書くということだと思う。言うまでもなく、問いの数だけ詩の歴史がありうるわけだ。

そうして最近は、歴史学や文芸批評、文学史の本なんかを中心に開いたり閉じたりしているわけだが、最近読んだ本に『このクラスにテクストはありますか』(スタンリー・フィッシュ, 1992)がある。正確には、読んだというよりパラパラめくった程度なのだが、ここで話したいのはそのことではなく、実はこの本には「解釈共同体の権威 3」という副題が付いている。おそらくは、発行元のみすず書房には「解釈共同体の権威」シリーズなるものがあり、この本は第三巻にあたるということだろう。本の訳者あとがきを見ると、原著を三分冊で訳出することになったと説明がある。ぴったりである。しかし不思議なのは、第一巻と第二巻が見つからない。ネット検索してもその痕跡すら見つからないので、たぶん出版されていないのだと思う。この「解釈共同体の権威」シリーズは、第三巻だけが存在する奇妙な「シリーズ」なのだ。

予告された本が実際には出版されないということは往々にしてあるらしい。例えば、『日本の詩 近代篇』(澤正宏・和田博文, 2000)のあとがきを見ると、日本の詩を近代篇と現代篇に分けて刊行する企画であると説明されているのだが、『日本の詩 現代篇』が出版された形跡はない。『モダニズム詩集 1』(鶴岡善久, 2003)は1だけだし、『流体力学(前編)』(今井功, 1973)は前編だけである。やはりなんだか不思議な心地のする話で、あり得た本の座席だけがそこに用意されていて、実際には誰も座っていないし、今後誰かが座ることもない(おそらくは)。ある本だけでなく、あり得た本のことを思うことも、ときには大切なのではないか。と思ったりしてみたが、なぜ大切だと思ったのかは分からないし、これもぼんやりと考えることのリストに追加しておく。

文章を書いていると、なにか有用なことを言おうとしてしまうのだが、これは日記のようなものなのだし、有用なことは何一つ言わなくてもいいのだった。それに有用なことというのは、一見有用でなさそうなことのなかに隠れているもので、と書いたところで、これまたなにか有用なことを言おうとしているな、と思ったので書くのをやめる。明るくなってきたし雨も降ってきたのでここで筆を置くことにする。