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ドラマ『呪怨:呪いの家』を観て~名もなき「それ」を人は「呪い」と呼ぶ~


◇ 怨霊の一人称は存在するか?◇

そもそも怨霊とは何なのか。

Wikipediaによれば「自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである(大辞林)」と書いてある。

なるほど。ではそうなのだとしたら、怨霊自身には、己と認識出来る主体があるということなのか。そして、たたりをしたりする怨霊(死霊、生霊)らは、それそのものに知能や意思や感情があって、我々人間が思考しながら行動するのと同じように、何かを思いながら動いているのか。
でもそうなると、生霊は何かということになる。生霊は、文字通り生きている人間から離脱した霊であり、どうやらこれは、本人(本体)の自覚なしに飛んでいくものらしい。だから、私だっていつの間にか怨霊を飛ばし、誰かの写真に写り込んでは、全然知らない人を震え上がらせているかもしれぬ。そしてそれは、私であって私ではない。

ならば、生霊も含めて怨霊というやつは、通常の生物のような主体的意思のもとに行動する存在ではないことになる。やっぱり怨霊に(知能を備えた)一人称は無いのかもしれない。

確かに一人称たる主体は無いと考えれば、合点がいくことも多い。
常々、心霊モノのホラーを見るたびに疑問に思っていたのだが、酷い目に遭う人間が必ずしも因果応報に則ってやられているわけではないのは何故かということだ。大辞林の意味そのままに「自分が受けた仕打ちに恨みを持ち」ということなら、自分に酷い仕打ちをした者にのみ、その刃は向けられるべきではないか。
なのに貞子も伽椰子も、たまたまビデオ観ちゃった人とか家に入っちゃった人を、無差別に殺しまくる。善人だろうが悪人だろうが、殺される者のパーソナリティなど基本関係ない。とりあえず彼らの仕込んだ地雷さえ踏めば、分け隔てなく死に追いやられる。
であるなら、この怨霊というヤツは、もともとは人から生まれた強い怨念ではあるが、あくまでもエネルギーの塊でしかない。
単なるエネルギーの塊にしてはよく出来ていて、見た目は人間っぽいし、たまにしゃべるし、目ん玉ひんむいて威嚇なんかもするから、つい知能や感情がありそうに錯覚するが、実は肝心の攻撃する相手を見極める能力すら持ち合わせていないのだ。

何かに似ている。ああ、ウィルスか。条件さえ合致すれば、誰でも感染するあれ。このところずっと人類を悩ませ続けているあれだ。
ただ決定的に違うのは、ウィルスというのはあれはあれで生きているのであり、子孫繁栄という本能、目的があるからこそ感染する。ゆえに、もとより宿主を選別する必要などなく、無差別でも真の目的を果たすことができる。だが怨霊というのは、生存本能にのっとって感染拡大するウィルスとは全然事情が異なる。ゆえに似て非なるものなのだ。

こうして怨霊の性質について冷静に分析すれば、彼らが「呪う」ことを何の目的として行っているのかわからない。とりあえず、色々な意味で不可解なエネルギー体だ。
そして再びこの疑問に立ち返る。
怨霊とは何なのか。
そもそも「呪い」とは何なのか。

◇ 人間の虚無の中に巣くう怨霊 ◇

逆に、因果が巡る「呪い」もあるにはある。
たとえば、お岩に酷いことをして伊右衛門が呪われる『四谷怪談』などの怪談モノがそれだろう。この惨状に関しては、「呪われても仕方ない」と納得する人も多いはず。もちろん気の毒でないことはないが、それも自業自得であり、むしろ悲劇のヒロインであるお岩に同情を寄せる人も少なくないと思う。
そして次によぎるのが、「自分は、伊右衛門みたいに酷いことをする人間じゃないから呪われたりしない」という無意識の安堵。ゆえに、因果によって呪われる話はリベンジものとしての面白さはあるものの、理由が明解なだけに自分事として捉える恐怖感はあまりない。せいぜい「悪いことをすればバチが当たる」という道徳観念で脅される程度だろう。

その点において、やはりJホラーと呼ばれるジャンルの恐怖は決定的に質が違う。
先にも述べたが、(あくまでも私が観賞した範囲内での話だが)基本的にJホラーでは、怨霊と呪われる対象となる人物との間にほぼ因果関係は無かったように思う。
なぜ呪われるのかという理由は、一言で言えば不運。
その人が呪われるきっかけは、たまたま怨霊の仕掛けたトラップに引っかかったからであり、その者の人格や所業がどうこうということには関係なし。コツコツ善行を積んできた実績があるから制裁を免れるわけでもなければ、悪行三昧してきた非道者がより凄惨な罰を受けるわけでもない。
いかなる人であろうとも、運が悪ければ問答無用でやられる。
誰にとっても明日は我が身であり、無差別殺人ほど怖いものはない。
この「次はお前だ!」感が、ブームに火をつけたのではなかろうか。

ただし『呪怨 呪いの家』を観賞して最初に襲われた感情は、恐怖よりも巨大な虚しさだった。
悲哀という情緒的な想いよりももっと向こう側にありながら、しかし絶望という完全な終焉に至る少し手前くらいにある終わりの見えない底なしの脱力感。それが、私のイメージする虚しさ、虚無感である。

まずこのドラマ『呪怨 呪いの家』に描かれる「呪い」は、これまでの『呪怨』のそれとも明らかに何かが違うのだ。
とにかくその「呪い」方と言ったら、何とも回りくどく陰湿で、泥沼にでもはまり込んだような倦怠感、徒労感に満ちているのだ。
巧妙かつ人間の心理に沿った呪い方であり、実に底意地が悪い。
と言っても、怨霊自体の派手さやある種の華は失った感がある。

何より『呪怨』といえば伽椰子に俊雄君じゃないかと思うのだが、あのアイコン化された面々が、すっかり鳴りを潜めているのだ。
確かに気配はある。しかし、『呪怨』恒例の怨霊モロ出しイベントは殆どない。ゆえに、心臓が跳ね上がるようなビックリシーンもごく稀で、キャーとかギャーとか言ってアトラクション的にスリルを楽しめる作品にはなっていない。

しかしその分、「呪い」はじっとりと絡みつくようにしつこく、そのスパンも対象者によってまちまち。長ければ数年、数十年と一人の人間につきまとうこともある。
つまり今回の「呪い」は、即死に至る病ではない
むしろなぶり殺し。

何なら、発呪(ハツジュ※造語)するまで潜伏期間があったりもする。
そう言えばウィルスも、宿主が死滅すれば共倒れになるので、あえて死なない程度に症状を抑えるような形に変化を遂げるらしい。その方が感染拡大も容易になるし、ウィルスも長く生きられるからだ。そういう点はウィルスと同じで、あくまでもフィクション上ではあるけれど、長いJホラーの歴史の中で怨霊のあり方も進化したのだろう。

今回の呪いには、人の心の内に出来た虚無という空洞に入り込み、増殖するという特徴がある。人間の心の隙間を見逃さず、実に巧妙にそのスペースに巣を作る。そしてそこに巣くう「それ」は、人間の清く純粋で美しい部分から養分を吸い上げつつ増殖。
やがて心の瑞々しく美しい部分はすっかり枯れ、再生する力すら奪われてどす黒く朽ち果てる。その先で「呪い」は、その人間の「愚かしさ」として怒濤の如く発呪する。
そうなれば、もう止められない。愚行に継ぐ愚行。さらに、呪われた一人の人間の愚行によって他者も傷つけられることになり、同じ傷口から呪いはまた侵入して感染。
止まらない愚行の連鎖によって、人々の不幸はクラスター化し、果ては社会問題にまで発展することもあるのだ。

つまり人の愚行を媒介にして怨霊は増殖し、不幸と破滅のパンデミックを起こすのが『呪怨 呪いの家』にて描かれる新しい形の「呪い」なのである。

◇ 人の世の不幸は呪いによるものか ◇

ちなみにこのドラマの時代設定は、1988年がスタートだ。
その時どきを象徴するような実際に起こった凶悪事件をドラマ内でテレビ放映し、舞台となる時代の「闇」の部分をストーリーにさりげなく編み込んでいる。さらに呪いの家を巡って起こる事件もまた、それらの凶悪事件に微妙にリンクするような内容になっているところも大きな特徴だ。

以下のような事件が時代背景として示されたり、あるいは、このドラマ内で類似の事件が起こったりする。
(※以下がすべてではないが、印象に残ったものを表記)

1988年「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」
1989年「女子高生コンクリート詰め殺人事件」
1994年「松本サリン事件」
1995年「地下鉄サリン事件」
1988年「名古屋妊婦切り裂き殺人事件」
1997年「東電OL殺人事件」

……etc

これらの事件のモチーフを虚実織り交ぜて構成に組み込むと、あたかも実際の凶悪事件が「呪い」の仕業であったかのように見えてくる。どうやらそんな仕掛けの中に、怨霊という存在の答えが示されているようだ。

このドラマは、冒頭から心霊番組、心霊研究家、タレントの心霊体験……等々、ある意味ありふれたエピソードによって、ありきたりなホラーフィクションの体でスタートする。
そして徐々に「呪いの家に関わった人間が呪われる」というルールめいたものが定着し、実際に呪いの家に出入りした者達が、次々と不幸な目に遭い、時には命を落とすという流れになっていく。
ここまでは、普通のホラードラマだし、一見、視聴者として疑問視する点はないように見える。

しかし「被害者」達に起こる、呪いによって引き起こされたかに思える一つ一つの不幸について、いまいちど冷静に眺めてみると、微妙に違和感を覚えないでもない。
なぜかといえば、その呪われたと思われる人々の不幸そのものは、決して超常現象によって引き起こされたものではないからだ。

通常なら、件のモンスターがドーンと画面いっぱいに登場して、被害者を真っ向からビビらして瞬殺したりするので、「ああ、怨霊にやられたー!」と誰もが理解するのだが、今回はそんな流れではない。

確かに、彼ら彼女らはだいぶ悲惨な目に遭うけれど、だがしかし決して非現実的な惨状ではない。つまり呪いがあってもなくても、その悲劇的な末路は起こり得る類のものだったことがだんだんとわかってくる。

たとえば、呪いの家の「被害者」の一人、聖美という女性への「呪い」について。

聖美 画像


【聖美の場合】

聖美は母子家庭で育てられてきたが、その唯一の保護者である母親は、あまり素行がよろしくない。特に異性問題ではトラブルを起こしがちで、そのおかげで高校生だった聖美は転校をよぎなくされる。
転校した先でも、聖美に不幸はつきまとう。
容姿の美しさを妬まれた聖美は、クラスメイトの陰謀によって、とある空き家で性的暴行を受ける。

つまりこの空き家こそが、件の呪いの家である。

この暴行事件の後、聖美は自分に乱暴した男、雄大を味方につけて、彼に自分の母親を殺させる。
母親を殺害後、そのまま二人で逃走。
とりあえずここまでの聖美の成り行きは、かなり悲惨でグロテスクな顛末ではあるが、しかしあくまでも人間の手によって引き起こされた出来事であり、そこに怨霊が関与しなくてもあり得た話ばかりである。

数年後、聖美はまだ生きていた。

自分を乱暴し、母親を殺した雄大との間に男の子をもうけ、家族となっていたのである。
しかし雄大は、もとより暴行魔であり殺人犯であることに変わりはない。
当然のごとくダメ男ぶりは健在で、聖美にはDV、息子には虐待と何のひねりもなくディープな不幸は形を変えて継続中。
長く続く不幸の中で、聖美はすでに開き直りの境地に入っており、彼女もまた当然のように息子を虐待している。
結局、雄大の決定的暴力により息子は瀕死の状態に。
再び聖美は姿を消す。

その数年後、聖美はやっぱり生きていた。

今度は、外国人労働者の多く住む寂れたアパートの一室で、外国人相手に売春をしながら生活をしている。この風景は、東電OL殺人事件を意識してのものだろう。
さらに彼女は、覚醒剤にも手を出していた。
そこへ、夫であるかの腐れ縁男、雄大がやって来てクスリをせびる。
彼の方はといえば、ヤミ金からの借金がかさみ、ついには内蔵まで売るはめに。肉体を売り続けている痩せこけた女と内蔵を売ってボロボロになった男が、二人揃ってヤクチュウ……。まさに、果てなく続く地獄絵図。

そして聖美は、ついに雄大を風呂場で水に沈めて殺す。

以上。

この一連の聖美の不幸極まりない荒廃した人生こそが、彼女への呪いのパッケージなのである。

◇ 名もなき「それ」を、人は「呪い」と呼ぶのかもしれない ◇

呪いの家に足を踏み入れたあの日、聖美が怨霊に憑かれたのだとしたら、ずいぶんと長いスパンで呪われ続けたものだ。
すぐに殺されるようなことはなかったが、彼女は不運と愚行まみれの人生から一歩たりとも外へ出ることは叶わなかった。
どこかで一念発起して、不幸の連鎖を断ち切ることは出来なかったのかと思わないでもないが、つまりはこれが呪いの力というやつなのであろう。

彼女の心の虚無に入り込んだ「それ」は、とことん正常な判断をむしばんだ。そして増殖はやむことなく聖美の周辺も食い潰しながら、一切の幸福の芽を摘んだのである。
しかし、彼女が殺人を犯すまでの凋落ぶりを見ても、表面上はやはり単なる人間の愚行の結果に過ぎない。

つまり「呪い」とは、人間の虚無に巣くう「それ」だったという結論。

裏を返せば、いつだって、どこにだって「それ」のエネルギーは、ありとあらゆるところに浮遊していて、誰の心にも棲みついて増殖する可能性があるということだ。だけど「それ」には名前がないものだから、人はやむなく、心の虚無に入り込む「それ」を「呪い」と呼ぶのかもしれない。

「それ」に一人称なんてない。意思もない。きっと、怨霊ですらないのだろう。単なる思念を増幅させるエネルギー。
もともとの「それ」自体はマイナスでもプラスでもなく、ただ入り込む心の有り様によって、最初からあった方向性がより強く発揮されるよう加担するのではなかろうか。
虚しさに囚われ「それ」を招き入れるのも、そこに栄養を与え、力を増進させるのもまた「それ」に入り込まれた宿主のみ。
だから、呪いの家に行かなくたって、人はいつだって呪われる。
心の隙、いわゆる虚無が発生すればすぐにだって呪われるのだ。

聖美に限らず、このドラマの主要登場人物達は、その出来事がどれだけ陰惨なものであっても、概ね人間に起こり得る範囲での不運や愚行によって不幸に堕ちている。
だから、少なくともこのシーズン1の段階では、「呪い」というものの扱いが、これまでの「たたり」とは種類を異にする意図で作られているように私には感じられた。

心の中で培養される「それ」に入り込まれた人間は、有り様によって幸にも不幸にも転ずることが出来る。しかしそもそも人間とは、放っておくとマイナス方向に、その力をそそいでしまう傾向があるのかもしれない。

人が心の内で悲観や愚かさを育ててしまっている時間こそが、いわゆる呪われた状態というものなのだろう。

もちろんこれは、あくまでもシーズン1だけを視聴して、私が勝手に導き出した結論である。ストーリーには、様々な伏線が散りばめられていたので、シーズン2でそれが回収されるのだとしたら、新たに因果関係や「呪い」の謎が解かれるのかもしれない。

ただ、もしマクロな視点で見た時の「呪い」や「怨霊」というものがそういう類のエネルギーだとしたら、私も含めて誰しもが、常に憑かれる危険をはらんでいる。
これぞホラーの一番怖いとこ。
その「呪い」は、すぐには我々を殺さずに、まずは生きていくことの地獄をとことん見せ続ける。まさに生き地獄。

私自身、呪われているのではないか?なんて、そう思う瞬間がないでもない。
万が一、この先において自分が呪われていることを確信するに至ったならば、すぐさま心の内の空洞を埋め立てて、絶対に「それ」が居座り続けることを拒否せねばなるまい。
もちろん、増殖させるような「悲観」という栄養も与えない。
そんな風にして、意識して「それ」に毅然と向き合い戦おうとするならば、人はきっと呪われた状態から脱することが出来るはずなのだ。

最終的にありきたりな精神論で締めてしまって申し訳ないが、もしかしたらこのドラマには、私が考えた以上にもっと奥深い視点が隠されているかもしれない。シーズン2に期待は高まる。

(END)

『呪怨:呪いの家』(英題:JU-ON : Origins)
2020年公開/日本/シーズン1・全6話
監督:三宅唱
脚本:高橋洋 一瀬隆重
出演:荒川良々 黒島結菜 里々佳


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