毎日がトライアスロン直後

「あなたの肝臓は常にトライアスロンをフルで完走した直後と同じ状態です。」中三の二学期に医者に言われた言葉だ。

中学三年生。所謂受験生になった私は地元で進学校と言われる女子高合格を目指して必死に勉強していた。それまでだって学年で十位圏内から落ちたことは殆どなかったし、そんなに死に物狂いになる必要はなかったんだと思う。しかし中一の終わりに母を亡くした私は必死だった。公立高校で教師をしていた母のお陰で勉強ができたと思われたくなかったし、何より可哀想だと言われるのが嫌だった。母を亡くして落ちぶれたと思われたくなかったのだ。中三の夏休みは朝7時に起きて朝食と身支度を整えて、少しの予習をして塾の夏期講習へ。昼で講習を終えると、コンビニで買ったパンを食べて公共施設の自習スペースで十八時まで勉強。帰宅して夕食と入浴を終えて零時過ぎまで勉強する生活を送っていた。

そんな生活を続けて二学期が始まりしばらくして、突然勉強が出来なくなった。学校が終わって帰宅すると鞄を下ろすのもやっとでリビングの床で眠り込んでしまうのだ。食事を摂ると何とも言えない気持ち悪さがある。塾はやっとの思いで通っていたが、家での勉強が全く出来ない。最初のうちは「受験生なのに寝てばかり」と叱っていた家族がどうにもおかしいと思って私を病院に連れて行った。とりあえず血液検査をしましょうと言われて採血し、帰宅。翌日か、翌々日だったか。病院から電話がかかってきた。とにかく肝機能がよくないらしい。病院に行くと、血液検査の結果を見せられたがγ-GTPが3000を超えていた。お酒を飲まない未成年の私にはピンとこなかったけれど、今考えると中々とんでもない数値である。しかし肝機能が落ちてる原因は不明。一時的なものかもしれないし、違うかもしれない。そこから毎週血液検査をする生活が始まった。

毎週血液検査をするようになって分かったのは、どうやら一時的なものでは無いということ。私のγ-GTPは時々5000を超え、医者から「大きい病院のベッドが空いていたら入院しましょう」と電話がかかってきた。ベッドは空いていなかった。原因は分からないけれど、効くことを祈って毎日慢性肝炎の人の治療に使われる点滴を打つことになった。その辺から学校生活すらままならなくなる。朝八時に病院を開けてもらい、一時間ほど点滴を打って遅刻して学校にいく。学校に着いても気持ち悪くて、保健室で寝てから教室に行くことがほとんどだった。早退せずに学校にいられたことも数える程度しかない。その頃には殆ど食事がとれなくなっていた。一日で子供用のご飯茶碗に半分程度の白米と生か茹でた野菜を味付けせずに少しだけ食べる生活。

私の体力的に無理だと医者に判断されて、一ヶ月程学校を休むことになった。家でひたすらぐったりと寝ていた。その頃に大きな病院で「この検査でダメだったら、肝臓の組織をとって検査に回しましょう」と言われる血液検査をした。とにかく沢山採血されたことを覚えている。幸いなことに、その検査で原因が分かった。EBウイルスだった。私が罹ったのは十五年ほど前のことなので、今の医療知識はないので間違っていることもあるかもしれないが、聞いてほしい。普通大人は殆ど罹ることがない弱いウイルスなのだそうだ。これといった治療法はない。免疫力が回復するように、なるべくストレスがない生活をして、とれる栄養をとってくれどのことだった。

学校を休んでいる間にある程度回復して、γ-GTPは1800〜2500程度まで落ち着いた。それでも充分異常だけれど、学校に通える程度の体調になった。卒業まで体育は見学だったけれど。そこからは順調に回復して三学期には1000を切っていたように思う。しかし病んでいた期間に落ちた学力は中々戻らない。塾の先生からも、私立単願に志望校を変えないか?と打診を受けた。でも受験もせずに諦めたら絶対に後悔すると、志望校である女子高を受験することに決めた。

滑り止めの学校も、志望校も、まだ免疫力が人並みでない私は特別に保健室で受けさせてもらった。何となく、孤独だったことしか覚えていない。志望校にはギリギリで合格できた。諦めなくてよかった、いい学校だったし。高校に入学する頃には人並みの身体になった。

今でもあの時身体を壊していなければ、もう少し違った人生になっていたのでは?と思ってしまうこともある。とにかく、身体も心も辛かった。病んで寝込む私を見て落ち込む家族を見ているのも辛かった。

いまはお酒も飲めるし元気です!いえい。


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