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みんなにならなくていい


中学、高校。一般的に恋愛感情が活発になり始める時期だと思います。しかし私はむしろそのタイミングで、自分が恋愛できない(少なくとも周囲と比較したときに、しにくい)体質であることに気付きました。

愛情ってなんだかんだ素晴らしいものだと思いますし、愛のある人でいたいと思っています。ただ、特に1対1の関係になったとき、愛情の持つ狂気性や、愛と憎悪が隣り合わせであることを感じていました。

これは、資本主義の等価交換が恋愛にも当てはまるという幻想が蔓延はびこっているということなんだと思います。多くの場合、愛されるには愛することが必要ですが、愛しても愛されるとは限らないです。

恋って社会的に受容された狂気だと思うわ

「her/世界でひとつの彼女」

愛とは身勝手なボール
投げれば自分だけは楽になる
そんなことできない

桜月 / 櫻坂46


だからといって恋愛が怖くなったというわけではなく、世間の言う恋愛が、自分の中のどの感情のことか分からなくなった、というほうが近いです。単に「好きな人や大切にしたい人にいだく感情」と定義付けると(恋人にしては)対象が多いですし、アロマンティック(=他者に恋愛感情を感じない人)とも違う気がします。

例によって、中学に入学したタイミングで告白してきてくれた同級生がいたので交際を始めたのですが、幼稚園からの仲ということもあってか、「友人として大切に思う気持ち」から何を変化させればいいのか分からない私と、おそらく典型的な恋愛をしたい相手との間でテンションのギャップがあり、長続きしませんでした。これ以降も好意を寄せてくれた人は何人かいたようなのですが、私はそれに気付かないふりをして距離を置くようになっていきました。なんかモテ自慢みたいになりかけましたが、高校以降はモテないどころかけ者にされてきたことを記しておきます()


昨今、結婚や出産はすべての人が目指すべきものという価値観は淘汰されつつありますが、恋愛経験となると、少ないことそれ自体が変わり者認定されることに繋がったり嘲笑の対象にされたりすることがあると感じます。

性別の話題に限らず、二元論が前提の会話には息苦しくなってしまいます。「恋人」や「友人」なんて誰かが決めた枠組みでしかなくて、人によってもっといろいろな色や形をしていていいと思います。グラデーションのように、液体のように、曖昧な存在でいい。誰が決めたかも分からない形に、自分と自分の好きな人を当てはめたくない。自分にとってあの人はあの人という枠でしかあり得ないですし、自分を自分として愛してあげられたらいいなと思います。

恋人じゃない 友達じゃない
だけど特別で仕方ない

栞 / タイトル未定

みんなみたいに、みんなにならなくていい

「いちばんすきな花」


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