day7_蓮田マンション20200107

day7 人や社会に規定されないために

最近移動している時間は極力スマホを見ないようにしている。
以前は移動中に情報収集したり、メールを返したり、チャットを返信したり、グリーン車に乗り込み資料作成みたいなことも日常茶飯事だった。
限られた時間の中で大量の情報をインプットし、タスクをこなして行き、思考すると言うよりは処理していくことを求められていたししていた気がする。
ある程度そういう時期も大事かもしれないが、今は効率的にスピーディーに大量処理することで価値を出すことよりも、本質的な違いを出すことで価値を出すフェーズに入ってきたこともあり大量のタスクを素早く正確にこなしていくループから抜けつつある。

常に情報の海にさらされていくと思考・感性が鈍る。
合理的な判断力はついてくるかもしれないが、本質を見誤る、重要なことを見誤る、ロジックは正しいけど実態とかけ離れている、ということがおこりがちだ。

どんどん世の中に情報が溢れかえり、ビジネスのスピードが増していくとき、AIは役立ってくれるのかもしれない。大量の情報を自動的に整理して、進むべき方向をexcelなどで過去整理して分析して意思決定していたようなものを効率的に行ってくれる。

一方でどんどんAIで判定してくれる、自分の進むべき道を人や社会に任せていくことのリスクは認識すべき時代に入りつつあるかもしれない。落合陽一と宮台真司の議論で、HRTechや出会い系サイトの事例をひきながら、データに支配される世の中への懸念を提示していたが、データにより自分の進む道が規定化されていくと、人間がロボット化していく。

AI時代にデータに規定されると、中国のジーマ信用的な世界が進んだときにどうなるか。宮台真司の表現を借りると「人間のクズ化」が加速度的に進んでいくといったところだろうか。自分が自分の進む道を極めるのではなく、データによって決められる世界。人類社会がそうなったときに、人間のロボット化が起こるのだろう。

人や社会がなんといおうと、データがなんといおうと、「自分が進む道はこれだ!」と自信を持って言えるのは知識をつければいいわけではない。むしろ知識をつけることは逆効果だ。
ではどうやったらデータに頼らずに判断をしていけるのか。
その一つには、おそらく自然と遊ぶといったようなことを通して、自然も含めた共同体感覚を持つ中で自分の役割を認知するということもあるだろう。
または自分の感性を磨くという意味で、自分のココロの動きに敏感になっていくといくために、ある種の無目的に文章を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりということがあるだろう。
無目的にというのはある種いいねを求めたり、フォロワーを増やしたりという目的を持たずに、あるがままのこころを出していくという意味のでの無目的的にという意味である。(感性を磨いていくというゆるやかな目的的な意味合いはあるのだが、決してKPI的には出来ないような固定的ではなく広くゆるく変動的なものである)

僕にとって毎日のこのnoteを書くということや
写真を撮影していくというこはこの無目的に表現していく一貫である。
Facebookに投稿するでもなく、ほぼ読者がいない中で投稿していく中で、自分の感性を磨いていくという作業である。

では移動時間にはどういった時間にするといいのだろうか。
一つには自分との対話の時間にあてるということがあるだろう。自分が今何を感じているのか、それはどういったことが原因だったのか、何に怒り何を嬉しいのかと感じたのか、そういったことを感じる時間にするというのも一つの方法だ。

データの支配の前段として、スマホに支配されつつあるいま、一回それを手放していく時間を強制的に作るということはより重要になってくるであろう。

P.S.今日の写真
駅前に建設中のマンション。発売したてであっという間に売り切れた模様。元々ここのマンションを購入するという可能性もあったのだが、結局一軒家を購入した。こういったマンションの良さは子育て世代のコミュニティがあることだろう、一方でこどもがあまり元気に跳ね回れないというデメリットがありそうだなとは思う。完成すると駅前の雰囲気がまた変わりそう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?