心を動かす訓練の必要性

郷里の長崎を舞台にしたドラマ「君が心をくれたから」が最終回を迎え、私なりには満足した読後感(視聴後感)を反すうしていた時、視聴率とからめて賛否両論がでていた。そのいくつかを読んで、感じた事を書き残しておきたい。

批判的な意見は、本来娯楽であるはずのテレビドラマになぜここまで悲劇が連続したことに中心があった。そして最終的にも、解釈が分かれるかもしれないが常識的に考えたらバッドエンドとしかとれない二人の主人公の内の一人が結局端的に死んでしまうという結末だったことに集中していた。しかも製作者側はハッピーエンドだと言っていたので余計に混乱させてしまったようだ。

思ったのは、製作者側は雨の物語のつもりだったが、視聴者は雨と太陽の二人の物語と思っていたという食い違いが存在したのではないか。

 たぶん、このドラマの最大の行き違いはここにあると思う。この物語はどう考えても自分に自信のない雨の成長譚が主軸にある。太陽君は雨の成長と自立を促す重要であるが脇役であった。だから、最初から雨が愛する太陽君の為に試練を乗り越えたら太陽君は本来の死という場所に戻っていくしかなかった。

本当は、あの事故の時に太陽はそのまま死んでいたのかもしれない。
その後の太陽が助かる代わりに雨が五感を失う物語自体が、雨の太陽の死を受け入れるための試練だったのかもしれない。
雨が、太陽と過ごせる時間を作れるなら五感を失ってもいいと誓ったのは、太陽の死を受け入れるために必要な心の動かし方を学ぶためだったのかもしれない。
だからこそ、生者である雨が全ての試練を受け入れた時に、死者である太陽は生者である雨のために、捧げられた心を拒否したのかもしれない。

心を捧げ、それを返す。
生者と死者の間のコミュニケーションでは、それしかうまくコンタクト出来なくなる時がある。
それを調整して(利益誘導ではなく)みんなの幸福が実現できるよう、これからも自分の置かれた立場で考えていきたい。

でも、なかなかそういうふうに主人公や脇役の置かれた立場に心を寄せることは昔ほど簡単にできていないのかもしれない。特に大人にとっては。

だからこそ、心を動かす訓練をしよう。
よい大人こそ。





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