止められなかった人間の苦悩

私の教え子たちには最後の授業で話していたことだし、周りの人にはいつも話していたから、ああ、あの話しかという話。
それだけ、私には誰かに話さないと、語り続けないと心のバランスが保てない事柄であったし、今もそうあり続けている。

20代後半の頃、大学院博士後期課程に通いながら小さな塾でも教えていた。
大人しい理系男子高校生に数学、やんちゃな小学生女子に算数と国語、ませた女子中学生には英語と、小さな塾だけになんでも教えていた。
その中に、高校生男子の彼がいた。

彼は元々文系で普通に私大の文系学部を目指し、英語を私から習っていた。
だが、その子の家はお父さんお母さんが医師、お兄さんが医学部学生、お姉さんは国立大学の文系の学生と、かなり周りが優秀な家族であった。

それでもジャッキーチェンが大好きな彼は、日曜日に公園で独自のトレーニングをするような明るい子だった。
だから、油断してしまった。

彼が突然この塾をやめるといい出した。
自分も両親や兄のように医療者になりたくなった。
だけど、兄たちと違って自分は東洋医学をやってみたい。
そういう大学が関西にあるが、受験科目として生物がいる。
生物は高校でも履修していなかったので、一から勉強したい、ということだった。
残念ながらこの小さい塾では、大学受験レベルの生物を教えられる講師は私を含めていなかった。
それが、退塾の理由だった。
それを話す時の、いかにもすまなさそうな彼の顔は、今だに忘れられない。

私の担当の英語の最後の授業後、私は小さなルール違反を犯した。
個別指導のその塾では学外で生徒と会う事は厳禁だったが、その日だけ彼を誘って塾の近くの屋台のラーメン屋に行った。
彼は申し訳なさそうに、でも興味津々でついてきてくれた。

屋台でラーメンを食べながら、私はビールを注文した。
定番のキリンラガーの瓶ビール。
屋台では中瓶だったが、コップを2つ頼んだ。
私はそこで、二つ目のルール違反を犯した。
今度は法律に違反する、やや重いルール違反だ。

「最後だから、一杯だけ飲んじゃおうよ!」
「え?あ、頂きます。」
「どう?」
「・・・来ますね〜」
「美味くない?」
「はい!」
この後二人で笑った。

「俺はもう直接教えられないけど、応援しているよ。」
ひとしきり笑った後私は彼にそう語りかけた。
「はい、ありがとうございます。」
彼の目は潤んでいた。

その後私もその塾を離れ、高校の教師や今も所属する予備校の講師に仕事を移した。
新しい環境、新しい教え子、新しい同僚でバタバタしててこちらから彼にはあまり連絡取れていなかった。
でも年賀状はやりとりしていた。
残念ながら現役と一浪目は失敗したという知らせは、年賀状でもらっていた。
その度に、頑張れ!大丈夫だよ、君ならやれるよ!と追加の返事でも書いてしまっていた。
彼の気持ちも知らないで。

二浪目であるはずの年、彼からの年賀状が届く前に、彼のお母さんから大きな荷物が届いた。
彼が描いた絵をカレンダーにしたものだった。
戸惑いながら同封された手紙を見たら、信じられない事実が告げられていた。

「息子は、自ら自分の人生を終わらせました。」

彼の絵は、どこか寂しげでもあり、でも何か楽しさもあるようなものだった。
私は、その手紙を見て続けて絵を見た時、
心と身体が溶けてしまった。


その後、私は二十年以上予備校講師を続けている。
勤務先のカリキュラムによってタイミングはずれるが、必ずこの話をどこかでするようにしている。
そして、その後、こうお願いしている。

「受験では色々起こる。思い通りならないことが起きる。だから、お願いする。

死なないで下さい。何があっても。

上に上がれない時は確かにあるけど、それでも生きて入れば、

前には進めるんです。

前に進めれば、上がれる時を待てるんです。」

自死はその人の命の決断であるから、他者は何も言えない部分が大きい。
でも、死なれる側として、止められなかった側としては、これだけあなたが去った後苦しんでいると伝えたい。

だから、私は30年近い年月で固有名詞や面影がぼんやりしても、絶対に君を忘れてあげないからな。
その証拠として、君という存在を、書いたり語ったりすると苦しくなるけど、これからも語り書き続けて行く。
覚悟しろ。






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