室井慎次「生き続ける者」ネタバレ感想
映画「室井慎次 生き続ける者」を見てきた。
思いがけない結末に驚き、少し混乱している。
これから書く感想には、重大なネタバレを含むので、まだ見たくない方はスルーしてください。
室井慎次は死んだ。
生物学的な肉体は、という意味では。
秋田犬のシンペイを探しに行って遭難する、という死へのプロセスは特に重要ではない。
恐らく病で、このままでも長く生きられないか、あるいはいつ発作が起きても不思議でない状況だったのだろう。
ふと考える。
自分がもしこの時の室井の状況であったら、どうしたいのか。
出世競争に敗れながら、事件の被害者や加害者の家族を支え始めていたとしたら。
でも、自分の持ち時間がそれ程長くなく、いつ死ぬか分らない境遇にあることを知ったならば。
ならば、生きている人に思いを伝えるしかないだろう。
室井はこの物語で悪人を裁くということを一切しなかった。
日向真奈美に洗脳され次々とトラブルを起こした杏にも
寂しさのあまり万引きをしたりくにも
商店で乱暴を働く若者にも
自分を拒んだ地元の住民たちにも室井は、あのいつもの苦虫をかみつぶしたような耐える表情で受け止め、そして彼ら彼女らに不器用にでも真摯に自分の思いを伝え続けた。
残念ながらりくの父だけは救い切れなかったが…….
いや、あのDV親父には彼が父親になれるにはもう少し自分自身が成長する時間が必要だということを知らせ、りくにあの父親と対等に向き合えるように「タカ兄」や「杏姉ちゃん」と一緒に過ごして成長して行く時間を作ることには、室井は成功していた。
室井は、タカ、杏、りく、それぞれの家族という「現場」に降りて行き、その「現場」の声を聞き、最後にその家族という「現場」を今生きているタカ、杏、りくを信じて任せた。
「全ての責任は自分がとる」という言葉を、その背中と生き方で訴えながら。
様々な関係者のインタビューやパンフレットを見ると、室井慎次役の柳葉敏郎さんの負担の大きさを考慮して室井らしい終わり方を考えたとあった。
それはそれで納得している。
だが、私はできる限り物語世界の中での合理性でこの作品の結末を理解し受け止めたいと思っている。
その理解で言えば、こうである。
ファンタジーとリアルが交錯する「踊る大捜査線」が、単なる娯楽映画ではなく人間の生き方にまで影響を与える「作品」として成立するためには、室井慎次は理念と信念と哲学として「生き続ける者」とならねばならなかった。
秋田に赴任して情熱を失っていた新城に自分の信念を渡し、関わった全ての人に信じて支え合う力を伝えるためには、短過ぎる室井の生物学的な肉体の時間は終わりを告げるしかなかった。
矛盾するようだが、だからこそ室井慎次は死んでいない。
「生き続ける者」として心に刻まれている。
だから、おそらく、あの結末しかなかったのである。