文豪のペペロンチーノ。

机の上に広がる、真っ白な原稿用紙の海。その傍らで寝息をたてている先生にそっと声をかける。
起こされて機嫌が悪いのか、はたまたこのところ頭を悩ませる「スランプ」という病なのか、由紀子には判別ができなかった。
「由紀子、まただめなんだ」
弱音を吐く先生をそっと抱き寄せ、頭を撫でる。
先生の頭の形はとても美しい。きっと親御さんが、赤子の頃に頭を動かして、大事に育ててくれた証なのだろう。
「こんな時は、ペペロンチーノですよ」
精のつくガーリックとオイルの香り、鷹の爪でピリリと効いた辛み、なにより名前が可愛らしい。ちちんぷいぷい、というようななんだか魔法にかかるような気がするのだ。

先生とお気に入りの喫茶店でペペロンチーノを食べる。由紀子にとっても、また先生にとってもいい気分転換となる。
帰り道の文房具店で新しい鉛筆を買い、先生の足取りが少しだけ軽やかになったようにみえた。

由紀子には、地元で母が探してきたお見合いの案件が沢山あった。だが、どの男も先生より素敵な恋文を由紀子に渡すことがなかった。薄っぺらい、家のことだけしか考えていないような結婚を写し出すようで、男たちの恋文には寒気を覚えた。
いつまでも先生と添い遂げたいとも思うが、母のことも少し心配してしまう。

ある時、先生の家に見知らぬ男性が居たときがあった。先生からは同窓生なのさ、と紹介をうけた。
彼はなにか会社を立ち上げてとても景気がいいらしい。
「由紀子くん、君はたいそう彼を気に入っているようだね」
そういいながら、交際そして結婚を申し出てきた彼には不審がったが、話を聞くと、形だけの結婚で構わないらしい。
なんといっても社長夫人、その座を狙う女性に飽き飽きしているそうで、その座を由紀子で埋めてもらい、自由に遊びたいようだ。もちろん由紀子は愛する先生のそばにいていいとのメリットもある。

あまりの都合のよさに揺らいだ心を、その晩は先生に打ち明けた。

「いつまでも君を縛り付けることはできないよ」と微かに寂しそうな顔で微笑む先生の顔は忘れられない。

この頃から、先生はお酒を沢山飲むようになった。
なにを思ったのか真っ赤なマニキュアを両の手に施すように由紀子に頼んだりもした。

先生は昔ほど、原稿用紙と向き合わなくなっていた。スランプという病のようだと言っていたが、由紀子にはわからない。
口を開くと「もう僕は話を書くことができない」と嘆く。
先生の手はアルコールで震え、文字を書くこともできない。

買い物の途中で、いつもの喫茶店の前を通り過ぎる。
由紀子に両の足にも真っ赤なマニキュアを頼んだ、その夜から先生の行方はわからない。
家にもおらず、連絡もつかない。
もしかしたら、と喫茶店に入るが、やはりいない。

「おや、由紀子くん。待っていたよ」
マスターはいつものように微笑みかけて席をすすめる。
買い物の途中であるが、マスターの笑顔が少し強ばっているのが気にかかり、少し滞在することにした。

「君の先生が、もし君が来たら振る舞うようにと言付かってたんだ」
そういいながら、料理を作り始める。
「それから、待ってる間に読ませるように、と」
差し出されたのはいつも部屋で見た原稿用紙だった。

由紀子、君には迷惑をかけてばかりだ。許してくれとは言えないが、こうして姿を消したことをどうか責めないでほしい。
このところ、思うように筆がすすまなかった。酒に浸ると気分がよく、筆がノるのだ。だけど酔いが覚めたとき、由紀子の顔を見たとき、やはりこのような話では君を幸せにはできないと。酔いが覚めると、手が震え、思うように筆がすすまないし、文字は書けなかった。
本当にこんな僕が、君の美しい時間を奪ったことにたいして、申し訳なく思う。

ある時、僕が捨てた話に君が続きを書いたことがあったろう。あの話はとても良かった。君を褒めたが、君は信じていなかったね。あんなものは僕には書けない。君にはやはり才がある。そう思って僕はあの話を本にしたんだ。
君に無断で出版してすまない。バレないようにと、君と初めて出会った喫茶店の名前を、本の名義にしたよ。
もうすでにかなりの冊数が売れている。
もし僕がいなくなって、どうしたらいいか分からなければ、なにか文章を書くといい。君はその才がある。悔しいけれど、僕にはないものだ。
なにか本を出すときは、その時の名義を使ってくれ。
「サツキ メグミ」だ。もうすでに君は、君の知らぬところで売れているから、次の出版は出しやすくなっていることだろう。

いつも君は僕の文章を褒めていてくれたね。少しでも勇気になれるように、僕は君にもう一つだけ置き土産をするよ。
僕の事を忘れろとは言わないが、君には幸せになってほしい。
ほら、こういうときはペペロンチーノだろう。
マスターに頼んでおいたから、それを食べて、喫茶店から出たら君は君の好きなように思うように、幸せになってほしい。
本当に君を愛していた。すまない。

由紀子が読み終えたところで出来上がったペペロンチーノは、いつもと変わらない美味しそうな匂いに包まれていた。
味も変わらない。ただ隣に先生がいないだけだ。
食べすすめていると、舌になにかさわるものを感じた。
鷹の爪だろうか。取り出したそれは、真っ赤に染められた誰かの爪であった。

まだまだ未熟でありますが、精一杯頑張ります