2nd July 2024

05:00
起床。

コーヒーを淹れて朝読書。

サリー・マクフェイグ『ケノーシス 大量消費時代と気候変動危機における祝福された生き方』(新教出版社)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(「フィリピの信徒への手紙 」2章6節)

 「自分を無にして」とある。
 自らの神の身分を捨て、あえて貧しい人間にまで自らを空しくし、低くする神の謙虚を「無にする」という意味のギリシア語で表している。この動詞を名詞にし、このキリストの謙虚を「ケノーシス」というふうに呼んでいる。
 マクフェイグは消費に対し、自己を空しくする=ケノーシスを置く。持続可能な社会を目指すことが必須である現在、ケノーシスが求められるという。ケノーシスや自制が提案するものは、他者に場所を与えること、自分は「もう十分である」と言って退くこと、そして、あらゆる生き物の相互以前性を認めることである。
 ここで語られる「自己」とは何か。空しくすべき「自己」とは何だろうか。明らかに消費を行う主体、私的所有を本質とする主体だ。
 当たり前の話だが、今、僕は自室にいて、目に入るもの全ては私的所有物である。図書館から借りた本がグレーゾーンにあるのかも知れない。住民税など地方税納税の対価の一つに図書館本があるかについて考えることは、アクティヴな共同体論のためには打ってつけかも知れない。

 取敢えず今は「自己」について問題を戻す。消費主体、指摘所有物の所有者である「自己」とは、哲学の文脈では近代的自己と了解されるものだろう。
 ヘーゲルは、フランス革命ががめざしていた「自由の政治的実現」の本質的な意味を哲学的に規定しようと試みた。この「自由」という観念こそが、ヘーゲルがその思想の基礎として考えたものであり、「わたしはわたしが自己を失わずにわたし自身であるときに自由である」という言葉に表わされているように、それはアリストテレスの示した「自己自身のために存在するのであって、けっして自己以外の他者のために存在するのではない人間は自由である」という古典的定義に立ち戻るものであった。
 この「自律した自己」という自由の観念はまた、「人間、一般に理性的存在は、単に手段としてではなく、それ自身が目的として存在する」というカントの思想を受け継ぐものともいえる。しかし、カントがその道徳論において、それぞれの個人が個別に抱くみずからの欲望のままに行動するのではなく、つねに自分の意志が普遍的なものであるかどうかについて問い、みずからを律するという「自律」にこそ、理性をもつ人間としての尊厳があるのだと主張し、自己の外側にある権威や命令に無批判に従うことからの自由を訴えたのに対して、ヘーゲルは、そのカントのいう理性をさらに推し進めたものとしての「良心」を想定したのである。
 この「良心」に従う人間は、「主観性」という個別的なものと、「客観性」という普遍的なものとの対立に悩むことはない。つまり「意志は、それが他の、外的な、無縁な何物をも欲せず、ただ自分自身を、意志を欲するかぎりにおいてのみ ― そうでなければ、それは依存的であるだろうから ― 自由である」、また「自由はまさに思惟そのものである。思惟を拒否して自由を口にするものは誰でも、自由が何を言っているかを知らないのである。思惟の自分自身との統一が自由であり、自由な意志である。 ― 意志は思惟する意志としてのみ自由である」というヘーゲルの言葉通り、人間の意志の観念そのものが自由と結びつけられることによって、「自由な意志をもつ人格」として、まさに「普遍的な理性」を与えられたのである。
 このようにヘーゲルは、近代的自己を排他的な個別的自己でも、外的規範の普遍性に同調する普遍的自己でもない、「個別性と普遍性の統一体」として把握することによって、真の意味での普遍的な理性をもった自己意識として描き出した。こうして啓蒙思想は、みずからの時代を対象として理解し、正当化しようとする「近代」自身の自己意識とでもいう近代イデオロギーを支えるものとして存在した。そして、「個人の尊厳を肯定する」という立場に立った啓蒙思想によって、さまざまなものを理性の対象に置き換え、理性に照らして理解し、変形し、理性にあわせて構成することができるという、強烈な理性の働きをもった近代的自己の自己意識が想定された。しかもそれは「人間が人間である」かぎりにおいて、普遍的なものであるとみなされるようになったのである。
 「私は私である」こと、そして「『私』の尊厳の肯定」を結ぶ線は資本主義によって可能であり、近代的自己と資本主義は、ほぼ同じものの裏表なのだ。少なくともプロテスタントにとってはそういえよう。

近代的自己、資本主義、私的所有について調べることにする。

07:00
朝食。雑穀、納豆、卵焼き、薩摩揚。

07:30
ジムへ向かう。

定番メニュー。
但し60分で12㎞走り切れなかったので、罰走として3㎞追加。
筋トレを一通りして炭酸泉に入る。

帰宅してウエアを洗濯機に入れてから図書館へ。
7冊借りる。
ベンヤミン関連    2冊
80年代映画      1冊
ノンフィクション   1冊
宗教学関連・死生学  1冊
社会契約・人種差別  1冊
美術史        1冊

仕事場で掃除、整理など。

12:00
昼食。雑穀、納豆、卵焼き、モヤシ、味噌汁。
食後にコーヒーを飲んで仕事再開。

14:00
生徒が来始める。

19:15
仕事場を出る。今日でのんびり仕事もお終い。明日から通常。

20:00
夕飯。缶ビールを1本開ける。

22:00
就寝。


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