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ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(朝日出版社)

 

  共同体論を読むとき、誰となら共同体を構成でき、どんなものとは不可能なのだろうかという問いがバックグラウンドで響いている。可能な限り共同体を大きくするためには、どうしたら良いのだろうか、と。

 このことは別の問題を根本的に孕んでいる。
    すでに現代社会という共同体( communauté )を生きているのだが、果たして誰と何処まで交流、伝達( communication )は可能なのかという問題だ。
 なぜならば共同体を構成するものが「人間」であるとき、それは狂気、身体、無意識、他者などの排除によって発明されたものに過ぎないからだ。近代になって発明されたものに過ぎない「人間」に普遍性があり、共通な本質があるという幻想を前提にしたとき、意思伝達が可能となる。
 あるいは「人間」という本質は普遍であり、個別性、特殊性は非本質とされる。差異は捨象可能なものであって伝達されるべきではないと考えられている。よって「人間」は、普遍性に回収され得ない単独者となる。そこで直接的なコミュニケーションではなく、宗教や美学など媒介的なコミュニケーションに賭けるほかなくなる。

 近代(そして現代も)、主体の形而上学が信仰されている。幻想を前提とするため、排除は不可避となる社会を生きている。また回収されない個別性という孤独から逃避するため、ファシズムに陥りやすい。属性だけで殺戮可能という戦争を、外交の一手段として保持していることが、その証左だ。

   新たな共同体について考えるとき、そもそも共同体が喪失したという郷愁を感じることが幻想でしかないことを忘れてはならない。
 近代以前に、あるいはもっと遡り、農耕や定住がはじまる以前に、麗しき共同体があったと考える根拠は何なのだろう。血縁など自然の所与に基づく共同体が、個人の目的を実現するために集まる近代社会へと移行したとき、近代社会が以前の社会や共同体の廃墟の飢えに成立したのではない。
 近代化以前の、身分、宗教、職業、地域などといった他律的な集団が親密で麗しいと憧憬される幻想は未だに流通している。

 ナンシーは近代における、前近代への郷愁=共同体喪失の意識の母型をキリスト教に求める。
 最後の晩餐に由来する聖餐は、キリストの血と肉であるワインとパンを「分有」し、信徒同士が「交感」し合い、贖罪のために犠牲となったキリストの聖体を介しての神人「合一」、信徒同士の「合一」がモデルであるという。
 郷愁の原因を「神的なものの退隠」であるという。共同体に不可欠である神的なものが退き、別のものを神的なものに置換えた。たとえば死、たとえば愛、たとえば自由、と。しかしこれらの観念は止揚されることもなければ、神的なものが人間化することもない。「分有」「交感」「合一」という共同性のないものの共同体が近代社会なのである。

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