29th June 2024

04:00
起床。コーヒーを淹れて朝読書。

中山元『<他者>からはじまる社会哲学 国家・暴力・宗教・共生をめぐって』(平凡社)

 ルドルフ・オットーは宗教を「聖なるもの」という視点からとらえた。それは日常には存在しないものであり、穢れたものとなった後に初めて到達することができる境地だという。但し概念的把握を寄せ付けない非合理的なものであり、語り得ぬものだという。
 デュルケームは「聖なるもの」と「俗なるもの」の対立から捉えようとした。
 彼らの思想を受けてエリアーデの宗教学が成立するのだが、僕は粗雑すぎて肯定し難い。
 僕自身の関心にひきつけて言えば、宗教について考えることは言語学、論理学、数学の問題である。
 たとえば「神は存在する / しない」ではなく、「神は存在する / しない」という言明が持つ意味を等閑にして何が分かるのだろうか、と思うのだ。

 そもそもは宗教という言葉自体の定義がなされず、曖昧なまま流通している。だいたいにおいてエリアーデ流の「聖なるもの」という概念に執着している。一等腹立たしいのは、緻密さ、厳密さを軽んじるところにあり、「聖なるものの」は定義し得ぬ曖昧なものと無反省にとらえていることにある。
 僕が日々の中で思い考える宗教とは、そもそも存在しないものだからだ。生活と存在の一切が宗教であり、思考と信仰と日常に乖離はない。いや、亀裂は多々認められるが、その格闘が思考=信仰=日常だ。
 勤労や納税も信仰の問題であり、公共の福祉について考えることも同様だ。
 端的に言葉にするなら、滝に打たれることも座禅も、修道院も不要だ。心を磨くのは日々の営みにおいてされるべきだ、と。そこを別にするのが近代の問題点の一つだと思う。
 スピノザの『神学・政治論』を読むと、不思議な気分になる。啓蒙思想が現れる辺りまで宗教は近代的な知に追い詰められていくが、そこからの逆転現象が見落とされがちに思うからだ。神聖化こそ近代が齎したと思うのだ。
 「聖なるもの」、「非合理的なもの」を人間の本性と置くことは、エリアーデ独自のものではない。ルドルフ・オットー、或いはカール・バルトからも継承したものだ。ただエリアーデの問題点は、人間の意識の根底に聖なるものがある、と固定したことにある。

問題点を整理すると、
 ① 意識には根底があるという前提
 ② 聖なるものを近代に先行する普遍という認識

①について
 意識に根底がある、自意識では認識しえない領域があるという考えは、無意識があるという仮説の上にしか成立しない。

②について
 「聖なるもの」の立ち位置が近代批判の道具という指摘は既にしたが、なぜそのような概念が浮かび上がったのかを考えねばならない。ヨーロッパがアジア・アフリカに進出することで非-キリスト教文化を発見した事実が語ることは、キリスト教神学との対比であり、つまりは近代合理主義の批判という形の補完でしかないことだ。同時に進化論史観の枠組みにしか存在しない。

 論理の巨大さを知らないものに限って、軽々しく「論理を超えて」などという。語り得ぬものを実体として捉えている。改めてエリアーデが齎した災厄は大きいと思う。

05:30
出勤。
掃除をして授業準備。

06:45
朝学習の生徒が来始める。
今日は昼過ぎまで。

12:30
昼食。雑穀、とんかつ、キャベツ。

14:00
髪を切りに行く。
その後ジムへ。

18:00
帰宅してカレー作り。

20:00
夕飯。
食後にジンとシークワーサーを炭酸で割ったものを飲む

22:00
就寝。

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