17th June 2024

04:15
昨夜、ベッドに入ったのが22時半頃だっので睡眠は足りていると思う。
取敢えず朝食。
豆ごはん、肉野菜炒め、白菜の漬物、サラダ。
食後は睡魔に勝てず、また
横になる。

06:30
完全起床。コーヒーを淹れる。
週末はテスト前は忙しく、ただ仕事だけで終わってしまう。
それも後一週間かな。

今朝も松浦寿輝・沼野充義・田中純『二〇世紀の思想・文学・芸術』(講談社)

 9章『批評の革新』の最後に「日本発の批評理論は「世界化」するか」という問題提起がある。
 嘗て江藤淳が、いずり小林秀雄の文章に戦慄するアメリカ人が出てくるに違いないと書いていたそうだ。討議で何人かの批評家の名前が挙げられ、世界水準であるか否かといった話題が進む。
 僕はある時からそうしたことに関心がなくなってしまった。評価されるものは評価されるだろうとしか思えないのだ。
 仮に、世界水準の思想(?)なるものが日本に存在するとしたら、それはアジアと西欧とどのように線を結ぶか、もちろん西欧とアジアの中継点としての日本ではなく、辺境でマイナー言語を母語にしながら強度のある思想を確立できるかによると思う。
 日本語、それは差別と支配のツールでもあり、その「呪い」のようなものに汚染されていると思うのだ。そのような言語を用いるならば、数学や経済学という抽象度の高い議論で振り切るか、徹底的に拘泥するか、その二択だと思う。
 思想はともかく文学と音楽の世界化はされたように思う。大江健三郎、大友良英がそうした人だと思う。どちらもアジアの線、西欧との線、日本という辺境での格闘と拘泥をなしてきた。

 こんな考えはどこから現れたのかと愚考すれば、神学に触れているからだろう。神学が目指すものは護教的なものであるかも知れない。だが、それは救済の対象をどこまで拡大できるのだろうか、という祈りにも似た問いが基盤にある。抽象化された理論のベースには、各時代の生活と文化が横たわっている。そうした意味では神学は普遍を目指さない。線的な歴史観、弁証法的な発展は、20世紀半ばまではなかったと思う。

08:40
 ジムへ行く。

 定番トレーニング。ただ土日と二日休んだせいか、相変わらず走るのは楽になるが、筋トレはより辛くなる。
 不思議だ。

11:00
 途中スーパーでキャベツを買ってから仕事場へ。
 昨日はあまりの疲れから片づけずに帰宅してしまったため掃除からスタート。

12:15
 昼食。キャベツのみ。食欲なし。
 弁当は冷蔵庫に仕舞い、明日食べることにする。

13:00
 少し仮眠して仕事再開。
 授業準備に入る。

 小4算 角

 中3補講 理科 化学電池、ダニエル電池

 中2歴史 試験範囲の復習 江戸時代
 中2英語    Unit2の確認
 中2理科 化学分野の過去問演習

残って仕事。

23:20
 仕事場を出る。

夕飯。野菜スープ。

食後、直ぐに就寝。
たぶん:24:30には完全に夢の中。

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