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伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書)


 政教分離が原則となっている。根拠法は憲法20条と89条。

第二十条 
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第八十九条 
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 政教分離の原則が採用される理由は、①信教の自由の保障を強化するため②民主主義を確立させるため③国家の堕落を防止するため等が挙げられる。 
 ①と③については、国家が特定の宗教と結びつくと他の宗教に対して差別が起こる可能性があることや、国家が正しい判断ができなくなるおそれがあるという考えに由来する。
 問題は②である。
 宗教は絶対的価値観によって成り立つものである一方、民主主義は相対的価値観によって成り立つものであり、宗教の価値観と民主主義の価値観は一緒には成り立たないというのが理由。

 果たしてそうなのだろうか。
 理性とは信頼にたる論理なのか、近代は近代たりえているのだろうか、という疑問を払拭できずにいる。
 これは自分自身への疑問でもある。論理的な思考は僕に可能なのか、近代をどこまで信頼できるのか、と。

 1991年の『悪魔の詩』翻訳者の五十嵐一殺人事件、2015年のシャルル・エブド事件があった。イスラムに対するカリカチュアを容認できなかった者による凶行と受け取れば良いのだろう。
 しかし、カリカチュアにイスラム嫌悪や人種差別は含まれていないのだろうか。或いは、そうとも受け取れる余地を持ったものではないだろうか。 その限りに於いて凶行を完全否定することが困難になる。
 それは僕が宗教のパロディを認め難いからだ。たとえば『聖☆おにいさん』(講談社)を好意的に受け止めることができずにいる。面白く描かれている、少なくとも面白く描こうとしている。ブッダ、キリストに対する愛のようなものもありそうにも感じる。しかし背後の思いが霧散し、面白さの追求が独立する契機になる。表現の自由を借りた嫌悪と差別が生まれる瞬間を用意することになる。こと、日本においては。
 
 国家神道体制とは、天皇崇敬をベースに諸宗教の信仰を認めるという、祭政一致と政教分離の二重構造である。国民の習俗として法的には非宗教とする皇室崇敬と神社神道は、教派神道、仏教、キリスト教と区別され、形式上は政教分離だが、実質は政治と宗教の十分な自律性を意味はなかった。

 国家神道体制は戦後日本にも通底している。
 現行憲法において、信教の自由を保障し、政治と宗教を分離したことは、政治権力が宗教よりも上位にあるという勘違いを起こさせ続けている。分離と管理は異なるのだが、世俗化された者にはそう受け取りやすいだろう。
 宗教的伝統を文化的習俗と言い換えることで、戦前の信教の自由を標榜しながら神道に服するという同じ姿勢を維持している。それは近代民主主義に求められるだろう信念や本心よりも、ホンネを本質とした浅はかなニヒリズムが蔓延しているからだろうか。

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