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李恩子『日常からみる周縁性』(三一書房)

 

    夫婦別姓を認めないこと、異性愛中心主義、これらは資本主義と家父長制を維持するためのイデオロギーであることの自明性は揺るがないだろう。だがイデオロギーであることを理解しても、払拭され切ることはなく、スティグマのように、いやスティグマそのものとして刻み込まれている。
 それは日本という土地で暮らしているからだろうか、日本語を用いるからだろうか、どうすれば解放されるのかを考えながら日々過ごしている。
 日本人であること、男性であること…などと言ったフィルターをどうすればニュートライズできるのか、名前も国籍も性別もないまま人権の相互保証は可能なのか、と。

 しかし何かを薄くすることができたとき、別のフィルターが現れてくる。その時、感じ、思うことの大半はキリスト教的であり、その中でもプロテスタント的であり、更にはカルヴァン主義的である。

例えば。

 現在の日本国家が、近代の帝国主義国家を築く際のアジア蔑視をベースにしたナショナリズムと連続性があり、形を変えながら再生産し続けていることは「間違いない」。
 だが、その判断は、キリスト教と西洋哲学、または両者が不可分である人文科学というフィルターを通したものだ。

 キリスト教中心主義批判など、正しさの保証をしているものへの批判の正しさ、強さも知っている。そのとき、何をもってどのように判断すべきか悩んでしまう。
 いや悩む必要などない、わざわざそのようなことを考えなくても良いのだという囁きは常に常に聞こえてくる。

 その囁きへの抵抗を喪うとき、現状肯定のイデオロギーが作動し、排外主義の肥大を招いてしまったのだ。
 指紋押捺拒否により刑事訴追されたロン・フジヨシ牧師の裁判の中で、申英子弁護士が「在日朝鮮人は日本を愛する権利を奪われている」と証言した。
 この言葉の重たさは、権利を奪われているのは何も在日朝鮮人だけではないことに由来しているのだと思う。
 国家、性別、信仰、良心が、自分より先行して存在する観念に依拠する限り、常に愛は喪失されてしまう。
 いや、そんなことはないと言うものは、単に歴史を、社会を知らないからだ。その無知さが、強者の傲慢として無意識に出ている。あるいは良心的呵責というカウンターの心性にも表れる。

 アルチュセールの分析概念に「国家のイデオロギー装置」がある。
 法律や社会制度の中だけで国家が作動しているのではなく、教育、宗教、メディアなど生活空間の中で支配的価値観、規範、排外主義的ナショナリズムは再生産されているという考えだ。

 それは日々、差別者と被差別者が再生産され、分断が更新されていくことを意味する。
 和解と贖罪がほぼ同義であるキリスト者において、イデオロギー装置からの離脱は教会であり、礼拝である。
 だが、そこではキリスト者という自分が構築され、没主体での自分自身が生成されることになる。
 人は教会の中だけで生きるのではない、否が応でも現実政治と関係する。それだというのに、教会の信徒としてのみ自分を規定すれば、内なる差別に気づくこともなくなってしまう。

 そのとき信仰すらも、国家のイデオロギー装置となり得るのだ。

 とても気になっている神学者の一人にドロテー・ゼレがいる。

 この世における神の働きは、人間の手によるものというのがゼレの見解。なぜならば神は我々人間の手以外に働く手段を持たないからだ。よって「政治的結果を伴わない神学的熟考は偽善行為に等しい」と彼女は『逆風、想起』(1995年)で書いている。

 とても素晴らしい。僕は賛同する。
 ゼレ同様にキリスト教と政治を結び付けたのはレーガンだろう。
 アメリカ覇権主義は、キリスト教右派との結びつきなしには成立しなかった。それはトランプが行った手法と同様だと言ってよい。彼らにとっての神は軍事力を正当化するものであり、アメリカ一国主義の象徴的現れとも言えよう。つまりは強い神だ。

 だがゼレの神は違う。

God as one who is vulnerable because the power of God is powerless love.

 神は弱い。神の権威は力を必要としない。

 奪われ、打ちひしがれ、暴力にさらされる弱さにこそ、生きる、そして生き延びる強さが宿う。閉塞的状況において神の愛の可能性があるのだとしたら、人にとって必要な内実は共感や共生ではない。

 「共苦」なのだ。苦しみを理解するだけでなく、その状況に対する根源的要因への怒りを持つことをゼレは説く。
 ある人たちを閉塞状況に追い込むのは、いわゆる中産階級に属する人々が社会矛盾を見ないで済む特権を行使しているからであり、無関心さとは国家のイデオロギー装置の推進力でもある。
 一部の権力者の問題を指摘するだけでは全く足りないのだ。
  
 李恩子の著書を違和感なく、そして気分よく読めたのは、思考の基盤にドロテー・ゼレがいたからだろう。

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