28th June 2024

04:30
起床。
コーヒーを淹れて本を開く。

中山元『<他者>からはじまる社会哲学 国家・暴力・宗教・共生をめぐって』(平凡社)

 「現行憲法は時代遅れで、改正が必要だ」という物言いを耳にする。その度に時代遅れなのは憲法よりも国家なのではないか?と思ってしまう。
 ヨーロッパで国民国家が成立するのは三十年戦争終結後にウェストファリア条約が締結された後のことだから400年も前のことになる。国家という形態を肯定することは、戦争すらも容認することになると思うのだ。

君たちにベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら、
我々にも君たちを好き勝手に殺す権利がある。
君たちにブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、
我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャ―、ドゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、
君たちの家々を 爆弾で爆破する権利がある。
君たちに、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、
我々にも君たちを銃剣で突き刺す権利がある。

 頭脳警察の1stを、ダビングにダビングを重ねて劣化した音で聴いたのは70年代の終わり頃のこと。上記の歌詞の正しさにひどく納得したことを覚えている。
 ヴェーバーを紐解けば、「現代の国家を社会学的に定義しようとするならぱ、全ての政治団体が所有しているある特殊な手段によるしかないのです。その特殊な手段とは物理的な暴力なのです」とある。暴力の行使を独占し、それが正統であることを要求し続ける組織が国家なのだ。
 もちろん国家が先験的に存在し、暴力によって国民を支配することはできない。国家の権威の正当性が必要とされるからだ。つまり先ず国民が国家の権威に服従することが求められている。

 国家の源泉たる暴力ととう対峙するべきか、権力に寄る支配を打破するための対抗的な暴力について論を展開したのはソレルだ。

 ソレルは、少数者によって支配される社会秩序の押付けが権力であり、それに対抗して秩序の破壊を目指すことを暴力と定義している。ブルジョワジーの行使する権力に対抗可能なのは、サンディカリズムであり、時には暴力による変革が必要であることを説いている。
 フランス語には、権力を含意するフォルス、暴力を意味するヴィオランスがあるが、ドイツ語にはなかったため、ベンヤミンは権力を「神話的な暴力」、暴力を「神的な暴力」と呼んだ。
 神話的な暴力は、境界の設定と換言できる。支配される者たちがある限界を井筒したときに罰せられるが、そのことにより権力への服従を更に強固なものにする。
 ベンヤミンはソレルの暴力論を肯定しない。なぜならプロレタリアのゼネラル・ストライキにしても、それが法的根拠を以て為せる暴力ならば、国家の権力と同様なものとなってしまうからだ。革命が革命的でないことをベンヤミンは気づいていた。権力に対抗する暴力は既に汚染されているのだ、と。

 冒頭で僕は国家は時代遅れかも知れないと記した。この言葉は残念なことに薄っぺらい皮肉にしかならない。それは既に僕が社会秩序の中で暮らしているからだ。平穏な暮らしを求めようとしているからだ。
 この平穏な生活は、抑圧の結果であり、さらなる抑圧を準備するものによって成立している。秩序を求めることは、そのまま暴力の是認にもなる。

06:45
朝食。雑穀、中華風スープ。
仮眠。

08:45
弁当を詰めてジムへ行く。いつものトレーニング。

ジムを出ると雨。小雨。
帰宅して家で弁当を食べる。
雑穀、納豆、キムチ、卵焼き。

あっちゅん堂に行き、『福音と世界』の今月号を購入。
図書館に二冊返却して仕事場へ。

15:30
授業開始。
中学生のテスト明けのため今日も19時で終了。

20:00

ビールの後はワイン。

22:00
就寝。


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