アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版)
不勉強なため、著者のアルフォンソ・リンギスを知らない。知らないまま本を開いている。タイトルに惹かれて手に取ったのだ。
誰もが共有できる理由や目的に基づくコミュニケーションによって形成される「合理的共同体」を一般的には共同体と呼ぶとすれば、リンギスの共同体はコミュニケーションが作り出す合意、同意には回収されず、それを絶えず攪乱するものだ。
リンギスの非凡さ、それは彼の言う「もう一つの共同体」は、「合理的共同体」とは真逆に存在するのではないことだ。その彼方、またはそのの手前にあるというところにある。
「合理的共同体」では、一般性によって定義される言語による理解に還元する。しかし他者の個別性、単独性は、そのような理解に還元可能だろうか。
否。
両次大戦は、一人一人の人間が持つ単独性、特異性を捨象して人々を均質化する近代合理主義の帰結の現れと捉える限り、合理主義の延長線上に倫理は存在しないのだから。
抽象的すぎるかも知れない。
たとえば…
姜徳相『現代史資料六 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)を紐解けば、6000人以上の在日コリアンの虐殺があったことは分かる。しかし「6000以上」という数字は、生きていたら全く別個の存在を、単に死体として等号で結ぶことによってしか立ちあらわれない。単独性、特異性を捨象することは虐殺と変わらないのではないか。
更に…他者を言語の裡で理解することは、交換可能な情報に還元することでしかない。これも殺戮の外っと呼んでも構わないだろう。
とりあえず僕らは合理的共同体に属している。観念化された記号によるメッセージや情報の交換を通して形成された共同体だ。成員たちは、互いに自分の合理的性質の反映しか見いだせない。
合理的性質の反映「しか」?
決してそんなことはない。
カントの仮言命法と、定言命法の間に見え隠れするものがあるではないか。命法が効力を持つのは「~すべし」という義務にある。その義務を与える命令は誰がなすのか。いや命令は与えられているのではない。道徳的法則と、それに従う理性を持つであろう自分自身への敬意によって課せられている。カントは、この敬意に不安や苦痛が伴うとしている。定言命法が課されている=負わされているものとして効力が生じるのは、自分と同じくこの命法を課せられている存在がいることであり、それを負わされる苦しみ、可傷性を感受するとき、初めて普遍性が垣間見える。
命法が齎す苦痛、それは負わされる・課されるという受動性によるものである。この命法の強度が増すのに応じて、苦痛や苦悩は消し難いものとなって滞留する。未来の償い、贖いによって交換され得ないからだ。身体に感受される苦痛や苦悩の交換不可能性が、主体としての個人の代替不可能性を示している。
苦悩と苦痛によって立ち現れる世界は、同時に肯定的な力を持つ。トーン、リズム、抑揚といった要素は、情報交換を目的とするコミュニケーションにおいては雑音と看做されて、排除の対象となり得る。リンギスはコミュニケーションの始まりに贈与を観る。交換が始まるのは、最初に贈与があったからである。
なぜ我々はコミュニケートするのか。コミュニケーションの必要条件は、意志の伝達の実現性ではなく、何かが伝達されていることの受け止めからだ。贈与の受け取り契機になっている。
communicateが他動詞だけではない理由が仄かに見えた気がした。withでによってこの自動詞に接続するのは、贈与を受け取った者の意志なのだ。無際限に開かれている動詞に繋がることが共感を意味するのだと思う。
贈与が単なる交換に堕すのとは、贈与者の痕跡と、受贈者が受け取ったという事実の抹消による。贈与は互酬性の不在の裡にあるものである限り、忘却なしには受け取り難いものだからだ。
資本主義社会において、交換が為されないことは無価値を意味する。しかし交換不能な贈与の受贈、交換不能なゆえに資本主義社会や近代社会では屑を受け取る悦びがある。リンギスは「唯一性と無限の識別可能性は、私たちの叫び、呟き、笑い、涙、つまり命の雑音の中に見出され」ると記している。
この雑音の泉に浸ることは、根源的なものの中に感応的に包まれることである。だから他動詞のcommunicateに「聖餐に預かる」という意味があることを強調したい。
レヴィナスを読んでいないこともあり、理解できていない部分が多々あったと思う。しっかりと読み込みたいと思う。それによって、ヴィトゲンシュタインがカトリックであったことの意味が見えそうな気がするのだ。プロテスタントの持つストイシズム、カトリックの祝祭性という単純な図式を越えたものがありそうだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?